小布施町: 岩松院

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概要・歴史・観光・見所
岩松院(小布施町)概要: 梅洞山岩松院は長野県上高井郡小布施町雁田に境内を構えている曹洞宗の寺院です。岩松院の前身である千僧林念仏寺は永享2年(1430)に創建され、文明4年(1472)に雁田城主荻野常倫が開基となり明室覚証禅師を招いて改めて開山しました。一時衰退しましたが元和5年(1619)に高井郡4万5千石(内2万5千石は越後魚沼郡、ただし元和6年:1620年、嫡男である福島忠勝が須坂で死去すると、この2万5千石は幕府に返上しています。)に減封となった福島正則が自らの菩提寺として中興しています。

福島正則は慶長5年(1600)に行われた関ヶ原の戦いの際、東軍として大功を挙げ安芸国、備後国49万5千石の大大名となりましたが、居城である広島城(広島県広島市)が台風で被害を受け幕府に無断で改修した事が問題となり当地に減封されました。寛永元年(1624)、館のあった高井野(長野県高山村)で死去、享年64歳、戒名「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」、寺号は正則の戒名に因み海福寺に改められ境内には霊廟が設けられました。

岩松院本堂の天井に描かれた"八方睨大鳳凰図"(小布施町宝)は21畳(縦3間、横3.5間)ほどの広さがある天井絵で葛飾北斎が88歳(弘化4年:1847又は嘉永元年:1848)の時制作した生涯最大の作品で"小布施の三大傑作"の1つ、絵具代150両、金箔を4400枚使用したと伝えられています(八方睨大鳳凰図には落款や裏書など直接的な証拠が無い為、製作者には諸説あり、図案が葛飾北斎で彩色が高井鴻山説、図案が北斎・鴻山共作で彩色が鴻山説、北斎・鴻山共作説、高井鴻山単独説など。これには北斎が当時としては余りにも高齢でこれだけの作品を制作する事は単独では不可能。製作年には北斎が江戸に居た可能性が高い。高井鴻山の当時の画力では到底描ききれない。などの理由が挙げられます)。

岩松院境内には福島正則の霊廟(小布施町指定史跡:約2.5メートルの五輪塔)や「蛙合戦の池」(近くには小林一茶の"痩せ蛙まけるな一茶これにあり"の句碑が建立されています。)があります。岩松院山門は入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚単層門、左右に仁王像安置。岩松院本堂は木造平屋建て、寄棟、鉄板葺き、平入、桁行11間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。山号:梅洞山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

【 岩松院:菩提者(福島正則) 】−福島正則は幼少頃から豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで大功を挙げ賤ヶ岳の七本槍に数えられました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦いでは東軍(徳川家康)に与し安芸国・備後国の2カ国49万8千2百石の大大名となり広島藩を立藩しました。ただし、豊臣恩顧の大名でその後も豊臣家を擁護する立場を取った為、大坂の陣では正則の参陣が認められず常に監視される立場ではありました。

慶長20年(1615)、大坂の陣が終結すると幕府の支配体制強化の一環から一国一城令と武家諸法度が発令、当時の広島藩には小方城(大竹市)、三吉城(三次市)、東城城 (庄原市東城町)、鞆城(福山市鞆町)、三原城(三原市)、神辺城(福山市神辺町)の6か所に支城を設け、発令後に支城の天守を降ろすなどしましたが城郭に近い形状を維持していた事から追加の破却令が出されていました。

元和5年(1619)、台風により大洪水が発生し居城である広島城が大破、正則は幕府に改修の届けを提出しましたがなかなか許可が降りず、政務や安全にも障害をきたしてきたので最小限の改修を行い事後報告しようと考えていました。ところが、この行為が武家諸法度に抵触すると断罪された為、正則は謝罪し改修した部分を破却し、嫡男である忠勝を人質に江戸に送るという条件で一応の決着が着きました。

しかし、正則は破却部分を本丸のみに限定し忠勝を江戸に送らなかった為、改易は決定的となり当初は弘前藩4万7千石への移封が検討されました。正則が何故このような愚挙を演じたのかは不詳ですが、結果的には幕府の裁定を受け入れ、広島城に立て籠もった家臣達を説き伏せ開城に応じています。正則は津軽家の反対などもあり弘前藩では無く信濃国川中島四郡中の高井郡2万石と越後国魚沼郡2万5千石、合計4万5千石で移封となり、家督を忠勝に譲り出家して高斎と名乗りました。

当初は須坂周辺に陣屋を構えたとされますが元和6年(1620)に忠勝が死去すると越後国魚沼郡2万5千石を返上、菩提を大乗寺(須坂市小河原)に葬ると新たに高井野に陣屋を設けて移ったと推定されています。その後は新田開発や、灌漑整備、検地など領内整備に尽力しましたが寛永元年(1624)、死去、享年64歳、戒名「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」。正則の遺骸は幕府の検死役の堀田正吉が到着する前に、福島家家臣の津田四郎兵衛が荼毘に付した為、その行為も違反と捉えられ福島家は改易となっています(後裔は旗本2千石で存続しています)。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-小布施町教育委員会

岩松院:写真

岩松院境内全景
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岩松院山門左斜め遠景 岩松院山門に安置されている仁王像(吽形像) 岩松院山門から見た境内へと続く参道 岩松院山門に安置されている仁王像(阿形像)
岩松院参道石畳みから見上げた石段と本堂 岩松院本堂正面 岩松院本堂右斜め前方から見た画像 岩松院本堂から見た庫裏
岩松院庫裏正面 岩松院境内に設けられた廟所門 岩松院境内にある福島正則の御霊屋 岩松院境内に建立されている鐘楼と梵鐘


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