小布施町(歴史)概要: 小布施町は古くは高井野牧、東条荘などの荘園があった地域で、鎌倉時代には苅田氏、室町時代には荻野氏が支配しています。戦国時代に入ると高梨氏の領地となり小布施町中心部背後一帯に苅田城や二十端城を築き一帯を治めています(苅田城の詳細は不詳で苅田氏や荻野氏が築いたとの伝承も残りますが現在も大規模な石垣が残るなど小布施町支配には重要な城だったと思われます。)。高梨氏が衰退すると永禄4年(1561)に武田信玄が小布施町を含む高井郡を領することになり、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと織田信長家臣の森氏、さらに本能寺の変後は上杉景勝の支援を受けた高梨氏が復権、しかし、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に移封になると高梨氏も随行し小布施の地を離れています。
元和5年(1619)、広島藩主福島正則が幕府から許可が降りる前に居城である広島城(広島県広島市)の修築を行い、その後も幕府の勧告を十分に行わなかった事から50万石の大大名から高井野藩4万5千石の大厳封となりました。正則は家督を嫡男忠勝に譲り隠居して小布施で余生を過しましたが、忠勝が早世した為に藩主に復帰したものの2万石に減じられ、さらに正則が死去すると残りの2万石も取り上げられ福島家は没落します(小布施町にある岩松院は福島正則の菩提寺とされ境内には正則の霊廟が設けられています)。
その後は元禄14年(1701)から正徳5年(1715)まで小布施陣屋が設けられ1万9千石の天領として代官所支配となり、寛政4年(1792)からは越後椎谷藩の領地(飛地5000石)として六川陣屋(小布施町都住)を設け支配します。又、北国街道の脇往還である谷街道(松代道)が整備されると宿場(谷街道は正式な街道ではないので認められた宿場ではない。)として重要性が増しました。その後、小布施の地は天領や越後椎谷藩の飛び地として陣屋が設けられ、町の中心部は谷街道の宿場町として発展しました。又、小布施宿は千曲川舟運の拠点でもあった為、物資の集積場として多くの豪商を輩出し、かれらが大檀那として葛飾北斎や小林一茶などの文化人を呼び寄せた為、文化的にも発展しました。
岩松院の庭園の池では毎年蛙合戦が盛んに行われ、それを見た小林一茶は「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」の句を残しています。又、小布施町は栗の産地としても知られ、「子どもらや烏も交る栗拾ひ」、「大栗は猿の薬禮と見へにけり」、「栗拾ひねんねんころり云ながら」など栗に関わる小林一茶の句碑が建立されています。小布施宿は明治時代中期以降、舟運業が衰退すると衰微しましたが、現在でも豪商達が建てた土蔵群や町並みが残され、それらを活用した観光地として整備されています。現在でも当時の名残が随所に残り懐かしい町並みが見られます。
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