小菅神社

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概要・歴史・観光・見所
小菅神社(飯山市)概要: 小菅神社は長野県飯山市瑞穂小菅に鎮座している神社です。小菅神社が境内を構えている小菅の里の絵図小菅神社の創建は白凰年間(645〜710年・※白鳳8年:680年とも)に修験道の開祖とされる役行者(役小角)が当地を訪れると地主神の化身が出現しこの地が霊地であると告げた事から小菅山元隆寺を開山したのが始まりと伝えられています。一方、周辺には縄文時代や弥生時代の遺跡が点在する事から小菅山自体を敬う素朴な自然崇拝が原型だったとも考えられます。その後、役行者は修験の寺院として修行していると小菅権現が出現し馬頭観音の化身である事を告げた事から小菅権現を主祭神として熊野・金峯山・白山・立山・山王・走湯・戸隠を祀り小菅山元隆寺を別当寺院として境内を整備しました。

八神(柱)を祀った事から何時しか八所権現と呼ばれるようになり、奈良時代の高僧である行基菩薩が修行に訪れた際には八所権現のそれぞれの本地仏を自ら彫刻し加耶吉利堂(カヤキリ堂)を造営したそうです。行基菩薩については小菅神社から程近い野沢温泉(長野県下高井郡野沢温泉村)を発見したとの伝説もある事から、関係性が窺えます。さらに、別当寺院である元隆寺大聖院が新義真言宗だった事から真言宗の開祖である弘法大師空海の伝説も多く、奥社へと続く参道には空海縁の「鞍掛の松」や「御座石」、「不動岩」などが点在します。

大同元年(806)に坂上田村麻呂(征夷大将軍)が小菅神社を参拝に訪れた際には八所権現本宮と加耶吉利堂を再建し元隆寺境内を整備、さらに、平城天皇(第51代天皇・在位:延暦25年806年〜大同4年809年)と嵯峨天皇皇(第52代天皇・在位:大同4年809年〜弘仁14年823年)の祈願所になると更なる寺運(社運)が隆盛し、現在も両天皇は里宮の祭神として祭られています。

由緒の真偽は判りませんが小菅神社が所有する最古の遺物である「木造馬頭観世音菩薩坐像」は形状などから平安時代後期に制作されたと推定される古仏で長く小菅権現と呼ばれていた事から明確な文献が無いものの、少なくとも平安時代後期には小菅神社が存在し神仏習合の形態だった事が窺えます。

平安時代後期の平治2年(1160)になると境内を含む周辺一帯が熊野若王子神社(京都府京都市左京区若王子町)の荘園に属していた事から明確な資料はありませんが熊野修験を中心とする修験霊場としての発展したと思われます。その際、地元神である小菅神に熊野神が合祀され、さらに、信仰が広がると共に全国の主要な神が合祀され八所権現と称するに至ったと思われます。鎌倉時代は幕府によって庇護され建久8年(1197)には初代将軍となった源頼朝が参拝に訪れ、社領700貫を寄進、最盛期には上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37坊を元隆寺大聖院が総括し戸隠神社長野県長野市戸隠)、飯綱神社(長野県長野市富田)と並び北信濃三大修験場として広く信仰され大きな影響力を持つようになりました。

中世には小菅神社の社領を挟んで高梨氏と市河氏が領していた為、鎌倉幕府が衰退し世情が不安定になると小菅神社(飯山市)の参道に設けられた木製の大きな鳥居両者の対立が顕著になり南北朝の動乱を経て室町幕府が確立するまで戦乱が続き、小菅神社も被害を受けたと思われます。その後、再興されるも永享元年(1429)の兵火により再び焼失、戦国時代に入り北信濃地方が上杉領になると春日山城の城主上杉謙信から庇護され、弘治3年(1557)には戦勝祈願の願文を奉納、天文年間(1532〜1555年)には小菅神社奥社本殿の造営が行われました。上杉謙信は飯山城を自ら縄張りするなど、当地域が信濃侵攻の最大の拠点として考えていた事から篤く信仰したと思われます。永禄10年(1567)の川中島の戦いの兵火を受け、多くの堂宇、社殿が焼失し、庇護者だった上杉家が当地から撤退し武田領になると急速に衰退していきます。

その後も度々戦に巻き込まれ本格的な再興が行われませんでしたが、天正10年(1582)に武田家が滅亡し再び上杉領になると謙信の跡を継いだ上杉景勝が庇護し、天正19年(1591)には奥社本殿が再建され、文禄2年(1593)には越後出身の金丸与八郎が鉄製鰐口を奉納するなど一定の再興が図られました。慶長3年(1598)に上杉景勝が鶴ヶ城(会津若松市)に移封になると別当寺院である元隆寺大聖院も随行した事で再び衰微します。最終的に大聖院は上杉景勝が本拠とした米沢城(山形県米沢市)の2ノ丸に境内を構え、能化衆(21ヵ寺)として上杉謙信の遺骸そのものが奉安された「米沢城御堂」の奉仕を行っています。

当地に残された小菅神社は江戸時代に入ると僅かに残った衆徒が小菅山を再興、歴代飯山藩(藩庁・飯山城)の藩主も庇護し、慶長11年(1606)には皆川廣照とその弟である皆川廣泰より絵馬2面が寄進しています。当時の皆川氏は松代海津城主松平忠輝の家臣で飯山城の城代で、絵馬に描かれた黒神馬は余りにも素晴らしかった事から夜な夜な抜け出し近隣の田畑を荒らしたとの伝説が残されています。

万治3年(1660)には松平忠倶によって社殿や堂宇の一部が再建され、元禄10年(1697)は松平忠喬が講堂の修復などが行われています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により大聖院が廃寺(小菅神社に移行)となり寺宝、仏式諸道具などが菩提院(信濃三十三番観音霊所第十九番札所)に移され、小菅神社として独立し明治6年(1873)に郷社、昭和8年(1933)には県社に列しています。

小菅神社の神門は、別当寺院だった元隆寺大聖院の山門だった建物で、元禄10年(1697)に改築、入母屋、鉄板葺、三間一戸、八脚単層門、明治時代に神社に転身した多くは随神が安置されましたが、小菅神社は引き続き仁王像が安置され続け、仁王尊堂(仁王門)と呼ばれています。多くの、社殿、堂宇が失われ、門前町も往時の賑わいは失われましたが、現在でも参道の左右には神仏習合時代の建物が点在し、名称「小菅の里及び小菅山の文化的景観」として国指定重要文化的景観に指定されています。又、小菅神社の例大祭で神仏習合時代から続く、2本の柱を用い五穀豊穣、天下太平を祈願する御柱行事が名称「小菅の柱松行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。

小菅神社の祭神
八所権現:熊野権現(伊弉冉命)、金峯権現(安閑天王)、白山権現(伊弉諾命)、立山権現(大国魂命)、山王権現(大己貴命)、戸隠権現(手力男命)、小菅権現(摩多羅神)。

小菅神社の文化財
・ 小菅神社奥社本殿-室町時代-入母屋,銅板葺,妻入,懸造-国指定重要文化財
・ 小管の里及び小菅山の文化的景観(389.72ha)-国の重要文化的景観
・ 桐竹鳳凰文透彫奥社脇立(2面)-桃山時代-縦74.7p,横32p-長野県:県宝
・ 板絵着色観音三十三身図(15面)-室町時代初期−杉材,一材製-長野県:県宝
・ 絹本著色曼荼羅図-室町時代-胎蔵界・金剛界-長野県:県宝
・ 小菅神社奥社参道杉並木-江戸-約800m,約180本-長野県指定天然記念物
・ 神戸のイチョウ-推定樹齢500年-樹高36m,幹周11m-長野県指定天然記念物
・ 柱松柴灯神事-年占の火祭り行事-長野県指定無形民俗文化財
・ 阿弥陀如来立像-室町時代初期-飯山市指定文化財
・ 木造馬頭観世音菩薩坐像-平安後期-35.3p,桂材,一木造-長野県:県宝
・ 阿弥陀三尊像ー享保17年-像高200p,寄木造,金箔-飯山市指定文化財
・ 万仏山観音石像及び本尊-江戸時代-飯山市指定有形民俗文化財
・ 絵馬(黒神馬・白神馬)-慶長11年-縦150p,横180p-飯山市指定文化財
・ 額絵(花鳥の図)-嘉永2年-縦90p,横134p-飯山市指定文化財
・ 紙本著色涅槃・極楽・地獄絵図-江戸-縦213p,横120p-飯山市指定
・ 紙本著色十六善神画像-江戸時代前期-飯山市指定文化財
・ 小菅大聖院跡及び奥社参道-室町〜明治-飯山市指定史跡
・ イトザクラ-樹高16m,幹周4.2m-飯山市指定天然記念物
・ ヤマグワ-樹高11.5m,幹周1.6m-飯山市指定天然記念物
・ カツラ-樹高約35m,幹囲3.52m-飯山市指定天然記念物

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(御由緒)-小菅神社
・ 現地案内板-飯田市教育委員会・飯山市瑞穂公民館
・ 現地案内板-小菅神社・小菅山一閑宗無
【 付近地図 】
長野県飯山市大字瑞穂字蓮池

小菅神社:境内・参道・案内

奥社
小菅神社の信仰の中心となった奥社、上杉家が造営した社殿として貴重です
奥社
里社
小菅神社の参拝を容易にする為に創建された里社
里社
護摩堂
小菅神社の別当寺院だった元隆寺大聖院の護摩堂
護摩堂
菩提院
小菅神社の仏具や仏像を移した菩提院
菩提院
講堂
小菅神社の別当寺院だった元隆寺中之院の講堂
講堂
仁王門
小菅神社の別当寺院だった元隆寺大聖院の仁王門
仁王門
小菅神社奥社に続く参道沿いにある桜の大木
 
白
 

小管の里及び小菅山の文化的景観:構成要素

信仰の篤さが感じられる奥社本殿奥社本殿
・小菅神社奥社本殿は戦国時代の天文年間に上杉謙信により造営されたと伝わるもので、入母屋造、妻入、銅板葺、懸造、桁行4間、梁間4間、内部には永正5年に造営された2基の宮殿が設置され、往時は本地仏や御神像が安置されてきたと思われます。国指定重要文化財。
飯山藩主より寄進された里社本殿里社本殿
・小菅神社里社は平城天皇と嵯峨天皇の勅願所だった神社で、現在も両天皇が配祀として祭られています。本殿は江戸時代初期の万治3年(1660)に飯山藩の藩主松平忠倶により造営され、大正12年に大改修されたもので、入母屋、鉄板葺、妻入、桁行3間、正面1間向拝付。
神仏習合時代の名残が感じられる護摩堂護摩堂
・小菅神社護摩堂は正徳5年、又は寛延3年に小菅神社5代目別当職恵照によって造営されたもので、明治時代の神仏分離令後に別当寺院だった元隆寺大聖院が廃寺になった後も残されました。木造平屋建て、寄棟、金属板葺き、平入、桁行6間、梁間5間、正面1間向拝付。長野県の県宝
重厚な印象を受ける講堂講堂
・小菅神社講堂は元隆寺中之院の堂宇だった御堂建築で、戦国時代の兵火により焼失しましたが、江戸時代初期に飯山藩主松平家の尽力で再興を果たしています。現在の建物は寛保元年(1741)に再建されたもので内部には像高2mの阿弥陀如来像が安置されています。長野県の県宝。
真っ赤で素朴な地方色の強い仁王像が安置されている仁王門仁王門
・小菅神社仁王門は元隆寺大聖院の西大門だったもので、天和2年(1682)以前に建てられたと推定されています。入母屋、金属板葺、三間一戸(桁行3間、梁間2間)、単層門、両側には寄木造の金剛力士像が安置されています。元隆寺が廃寺になった後も破却されず神仏習合の名残を残しています。長野県の県宝。



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