妻籠宿(木曽路)・枡形

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妻籠宿(木曽路)・枡形

【 概 要 】−宿場町は戦時においての戦略的な拠点になる事から宿場全体妻籠宿(木曽路)・枡形がある種の城塞のような意味合いを持ちました。その為、出入口には必ずと良い程に枡形や鍵形と呼ばれる道を直角に2度曲げて見通しを悪くしていました。これは、城郭で見る枡形の城門と同じ働きをして、敵から直接見えない事が猜疑心を産み進軍を躊躇させる心理的な事や、大軍での軍事行動が制限する事が出来ます。又、味方からは守り易く、行動に手間取っている敵を、町屋の2階から挟撃出来、味方の人数を敵に知られる事なく配置する事も出来ます。妻籠宿の寺下町と上町との境目に設けた枡形の場合はさらに高低差を利用し、高台に光徳寺を配するなどの工夫が見られ一般的な宿場町よりも念入りに町割されていた事が窺えます妻籠宿(木曽路)・枡形(寺院の境内は多くの兵を配置出来る他、墓石を利用して石塁を容易に築く事が出来る為に軍事施設に転用する事が出来ます)。妻籠宿では京都側と江戸側の2箇所に枡形が設置され有事の際に備えていました。明治32年(1899)に大平街道(飯田街道:中山道の宿場町である妻籠宿と三州街道の宿場町である飯田宿を結ぶ街道)が大きく改変され経路変更の工事が開削された際、江戸方向に向って右側が本来崖地だったものが、大きく上部が削られてしまいました。しかし、残された部分は町並みを含めて当時の枡形の形状が非常に良く残され貴重である事から昭和41年(1966)に南木曽町指定史跡に指定されています。

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