松本城概要: 松本市のシンボルとも言える松本城はパンフレットによると「戦国の世の、権力の盛衰とともに城主を次々と変えた松本城。築城は永正年間(1504〜21)と伝えられていますが、小笠原貞慶が整備拡充し、城下町の形を変えたのは天正10(1582)年のこと。現存する天守を築造したのは石川康長で、文禄2〜3(1593〜4)年頃といいます。天守は昭和25年から、文部省直轄の国宝保存工事第1号として修理されました。装飾を抑えた破風、木と木の組み合わせによる造形、朱塗りの廻縁をめぐらせた月見櫓も美しく、質実剛健の威容を携え、国内外から訪れる人々を迎えてくれます。」とあります。
又、現地案内板によると「 江戸時代中期の松本城の様子−本丸と二の丸からなるこの地域は、松本城の中枢である。面積約2730uの本丸御殿(政庁)と五重の天守閣がそびえていた。二の丸には、東から面積約2330uの二の丸御殿(藩庁)、面積約700uの古山地御殿(城主私邸)、松本藩の籾蔵、幕府の八千俵蔵(備蓄米2000石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、外敵に備えて5棟の隅櫓がおかれていた。なお、現在二の丸御殿跡は平面復元されている。」とあります。松本城は天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が昭和27年(1952)に国宝に指定になっている他、敷地全体が昭和5年(1930)に国指定史跡に指定、平成18年(2006)には日本100名城の1つに選定されています。その後、松本城は二の丸と本丸御殿(黒書院)に続く枡形門である黒門一の門(楼門)を昭和35年(1960)、平成元年(1989)には黒門二の門(高麗門)を復元し、平成11年(1999)には三の丸と二の丸を繋ぐ枡形門である太鼓門が復元され、当時の松本城の威容を伺え知ることが出来ます。
松本城(長野県松本市)は戦国時代の永正年間(1504〜1520年)に当時の信濃守護職だった小笠原氏によって築かれた平城です(諸説あり、永正元年:1504年に島立氏が築いたとも、室町時代に坂西氏の居館として築いたとも)。当時は小笠原氏の居城である林城の支城で、居館程度の規模で深志城と呼ばれていました。天文19年(1550)、甲斐守護職の武田信玄が信州深くまで侵攻し林城は落城、同時に深志城も責められ落城しています。信玄は林城を廃城とし、交通の要衝で戦略的な拠点に適した深志城を修築、松本盆地の中心施設としました。天正10年(1582)、武田家の勢力に陰りが見えると、一族衆だった木曾義昌が武田家家中から離反し織田方に転じ、武田家が滅亡すると、その功により松本盆地周辺の領地が与えられました。義昌は家臣を深志城に城代を置いていましたが、僅か数か月後に本能寺の変により織田信長が倒れると、信濃国、上野国に配された織田家家臣は一斉に本国に帰国した為、後ろ盾を失った義昌は松本盆地を維持出来なくなり本領の木曽谷に撤退、代わって小笠原一族の小笠原洞雪斎が上杉景勝(春日山城の城主)の協力を得て深志城に入ります。
しかし、洞雪斎の支配は長く続かず、徳川家康の協力を得た小笠原貞慶によって深志城は接収され洞雪斎は景勝を頼り越後に退いています。貞慶は深志城の修築を行い松本城に城名を改称し領内や城下町の整備を行ったと思われます。貞慶は家康の家臣石川数正に長男の小笠原秀政を徳川家の人質として預けていた事から、数正が豊臣家に出奔すると、豊臣家の家臣となり天正18年(1590)の小田原の陣でも前田利家の軍の下で大功を挙げ讃岐半国を与えられています。しかし、その後秀吉の不快を買い再び徳川家の家臣となり下総古河3万石で移封となっています。
代わって松本城には石川数正が10万石で入り、大天守閣を設けるなど拡張整備が行われ、近代的城郭へと様変わりします(大天守閣の完成は2代目康長の代)。跡を継いだ石川康長は慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで東軍方として行動した事で引き続き松本領が安堵され松本藩を立藩、松本城に藩庁、藩主居館が設けられます。慶長18年(1613)、石川康長は大久保長安事件に連座して改易になると小笠原秀政が飯田城(長野県飯田市)から8万石で復権し、元和3年(1617)に跡を継いだ小笠原忠真が明石城(兵庫県明石市)10万石で入封になると松本城には戸田氏が入ります。その後は松平氏、堀田氏、水野氏(忠清→忠職→忠直→忠周→忠幹→忠恒)、戸田氏が城主を歴史し明治維新を迎えています。城下町は城の周囲と街道の要所に武家屋敷が配され、善光寺西街道(北国西街道:北国街道の丹波島宿と中山道の洗馬宿を結ぶ街道)と千国街道(松本城下を基点として北陸道の糸魚川宿を結ぶ街道)を引き込み、街道沿いに町人町を町割させ経済的にも考慮されています。特に中町付近には白壁の町屋建築や土蔵が軒を連ね風情ある町並みが残されています。
【 石川数正の出奔 】-石川数正は徳川家康が今川家に人質されていた頃から従い、徳川家の主要な戦いにも従軍して功を上げ、三河一向一揆では自ら信じる一向宗から浄土宗に改宗し一揆の鎮圧にも尽力した重臣中の重臣でした。しかし、その石川数正が突如として敵対する豊臣秀吉に出奔(主家から離れて他家に仕える事)、その理由は不詳ですが、様々な説があります。実話かどうかは判りませんが数正には次のような逸話が残っています。ある時、徳川家康に仕えるある家臣が、織田信長から授かった大切な鯉を殺してしまい、家康は烈火の如く怒り、その家臣を打ち首にしようとしました。その話を聞いた石川数正は、残った鯉も全て殺し、さらに家臣にその鯉を食べさせてしまいました。家康の激情はさらに高まり、数正も打ち首にしようとしましたが、数正は「鯉1匹と今まで家康様を命がけで守ってくれた家臣の命の重さも判らないようでは良い主とは言えない。私を打ち首にしても、鯉を殺した家臣を殺す事は主としてあってはならない。」と諭し上着を脱いで後ろを向いたそうです。すると家康は感動の余り涙を流しながら数正に頭を下げ許しを請たそうです。しかし、数年後、今度は徳川家康の嫡男で将来有望視されていた徳川信康を織田信長の命により自害させるという事件が発生、数正は、信康の守役、後見人だった事もあり、この前のあの涙は偽りだったのかと落胆し家康の忠誠心が薄らいだと伝えられています(諸説有り)。
【 大天守閣:概要 】−大天守閣の建築年は明確な記録が無い為に所説ありますが、天正18年(1590)に松本城10万石で入封した石川数正が城郭と城下町を大きく改変した天正19年(1591)に建てられた説や、天正19年(1591)に起工し文禄3年(1594)に竣工説、跡を継いだ石川康長が関ケ原の戦いで東軍に与し地位が確立した後の慶長5年(1600)〜慶長6年(1601)説、慶長18年(1613)に旧領(松本藩領)に復帰した小笠原秀政が松本城を整備した慶長20年(1615)説などがあり、何れにしても現存する五重天守閣の中では最古とされます。元々は最上階が望楼で高欄を廻した望楼型天守だったとされますが、江戸時代初期に徳川家光が善光寺参拝の際に松本城を宿所として利用する計画があった寛永10年(1633)頃に現在のような層塔型天守となるように最上階だけ改築されたと推定されています。明治4年(1871)の廃藩置県により松本藩が廃藩となると事実上松本城は廃城となり、明治5年(1872)には天守閣が235両で落札され解体される事が確実になりましたが、当時の松本下横田町副戸長市川量造が天守閣が失われるを惜しみ、明治6年(1873)から明治9年(1876)まで天守閣やその周辺を利用して5度の博覧会を開催し、そこで得た収益で買い戻し保存される事になりました。明治30年代になると老朽化が進み大きく傾きましたが、当時の松本中学校(現松本深志高校)校長である小林有也が倒壊の危機を感じ、全国から浄財を募り、そこで得た寄付金により「明治の大修理」が行われました。
松本城大天守閣は五重六階、層塔型天守で、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓を付属する複合連結式天守でもあります。入母屋、本瓦葺、高さ29.4m(石垣含む)、随所に唐破風(出窓)や千鳥破風が設えられ、意匠的要素の強い花頭窓が設けられています。外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁が下見板張り黒漆塗り、防衛施設として1階には石落としがあり、鉄砲狭間37カ所、矢狭間40カ所、合計77カ所が設けられています。
【 乾小天守:概要 】−乾小天守がの建築年は明確な記録が無い為に所説ありますが、天正18年(1590)に松本城10万石で入封した石川数正が城郭と城下町を大きく改変した天正19年(1591)〜天正20年(1592)頃に大天守閣に先駆けて建てられた説が有力です。松本城乾小天守は大天守閣の北側に位置し(渡櫓で大天守閣と接続)、「北」という字が忌み嫌われた為、同じ北の方角を意味する「乾」の冠が付けられました。三重四階天守、入母屋、本瓦葺き、3階南側千鳥破風付き、1階は桁行5間、梁間4間、2階は桁行5間、梁間4間、3階は桁行3間、梁間3間、4階は桁行3間、梁間3間、高さ16.8m(石垣含む)。外壁は外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁が下見板張り黒漆塗り、4階外壁に花頭窓付、防衛施設として1階には石落としがあり、鉄砲狭間12カ所、矢狭間16カ所、合計28カ所が設けられています。
【 辰巳附櫓:概要 】−辰巳附櫓は寛永11年(1634)に三代将軍徳川家光が上洛後、帰路は中山道を利用し善光寺詣でするとの計画が立ち上がり、松本城に立ち寄る事になった為、当時の城主である松平直政が家光に迎え入れる意味で建築されました。松平直政は結城秀康の3男で家光とは従弟同士で寛永10年(1633)に松本城に入封したてという事もあり、篤くもてなす施設だった事から、狭間は設けられているものの、石落としなどの防衛施設が設けられませんでした。松本城辰巳附櫓は大天守閣の南東に位置し、同じ南東の方角を意味する「辰巳」の冠が付けられ隣接する月見櫓と大天守閣を結ぶ役割がありました。二重二階櫓、入母屋、本瓦葺き、東西(梁間)3間、南北(桁行)4間、高さ14.7m(石垣含む)。外壁は外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁が下見板張り黒漆塗り、2階外壁に花頭窓付、防衛施設である石落としは大天守閣、乾小天守、渡櫓にはあるものの辰巳附櫓は無し、鉄砲狭間3カ所、矢狭間2カ所、合計5カ所が設けられています。
【 月見櫓:概要 】−月見櫓は寛永11年(1634) に三代将軍徳川家光が上洛後、帰路は中山道を利用し善光寺詣でするとの計画が立ち上がり、松本城に立ち寄る事になった為、当時の城主である松平直政が家光に迎え入れる意味で建築されました。松本城月見櫓は大天守閣の南東に位置する辰巳附櫓に接続しています。一重一階櫓、寄棟、本瓦葺き、東西(桁行)4間、南北(梁間)3間、高さ11.1m(石垣含む)、外壁は外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、3方が解放出来(普段は舞良戸で囲われています。)外側には縁が廻り朱色の高欄付、防衛施設である石落としは大天守閣、乾小天守、渡櫓にはあるものの月見櫓は無し、鉄砲狭間や矢狭間もありません。天守閣に付属している月見櫓で現存しているのは松本城のみで大変珍しい存在です。
【 渡櫓:概要 】−渡櫓がの建築年は明確な記録が無い為に所説ありますが、天正18年(1590)に松本城0万石で入封した石川数正が城郭と城下町を大きく改変した際に、まず乾小天守が整備され、後に大天守閣が建てられた後の江戸時代初期頃に両天守を繋ぐ為に建てられたと思われます(辰巳附櫓と月見櫓は寛永年間)。松本城渡櫓は乾小天守と大天守閣の間に位置し、二重二階(地下一階)、切妻、本瓦葺き、高さ12.0m(石垣含む)、外壁は外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、腰壁が下見板張り黒漆塗り、2階外壁に花頭窓付、防衛施設として1階には石落としがあり、鉄砲狭間3カ所、矢狭間2カ所、合計5カ所が設けられています。
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