光前寺(駒ヶ根市)概要: 宝積山無動院光前寺は長野県駒ヶ根市赤穂に境内を構えてる天台宗の寺院です。光前寺の創建は貞観2年(860)、慈覚大師円仁(平安時代の高僧、第三代天台宗座主、入唐八家)の弟子、本聖上人によって開かれたのが始まりとされます。戦国時代に織田信長による武田勝頼討伐の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し詳細の由来は失われていますが、創建については次のような伝承が伝えられています。
伝承によると本聖上人は慈覚大師円仁に師事し比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本)で修行を重ねた後に師である円仁が東国を巡錫した事に倣い当地を訪れたました。そこで太田切川(長野県駒ヶ根市・上伊那郡宮田村を流れる川で、天竜川水系の一級河川)の上流にある不動滝を修行場に定め毎日修行していると不動明王像が滝の中から出現し為、霊地と悟り当地を開墾すると共に一宇を設けて一大霊場として整備したと伝えられています。光前寺の本尊である不動明王像は7年に1度御開帳される秘仏で、その年には開扉法要、中日法要、稚児行列、秘宝「雨乞いの青獅子(駒ヶ根市指定有形文化財:美術工芸品・彫刻)」の公開などが行われます。
光前寺はその後、戸隠山(当時の顕光寺、現在の戸隠神社、顕光寺は明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈運動により廃寺)、善光寺、更級八幡神宮寺(現在の武水別神社、神宮寺は明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈運動により廃寺)、佐久津金寺、共に「信濃五大寺」又は「天台宗信濃五山」と呼ばれる程に発展し南信州随一の祈願霊場として広く信仰されるようになり寺運が隆盛します。
中世以降は領主である武田家の庇護によりさらなる発展がありましたが、織田家による信濃侵攻の兵火により堂宇が焼失、豊臣政権下で再興され、広大な寺領を領し江戸時代には幕府から朱印地60石、格式10万石を得ました。光前寺からは多くの名僧が輩出され、境内はもとより伊那谷一円に末寺、支院が建立されましたが明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈の風潮により多くの末寺、支院が廃寺に追い込まれました。伊那七福神(弁財天)。宗派:天台宗。本尊:不動明王(不動明王音日八大童子)。
【 光前寺の歴史的建造物 】-光前寺弁天堂は江戸時代初期に造営されたもので、入母屋、銅板葺、平入、桁行1間、梁間1間、外壁は真壁造り板張り、小規模ながら江戸時代初期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から昭和46年(1971)に国指定重要文化財に指定されています。三重塔は文化5年(1808)に造営されたもので、高さ17.1m、宝形屋根、こけら葺き、棟梁は初代立川和四郎(富棟)とその子供である四郎治(富方)、南信濃に残る唯一の三重搭の遺構として貴重な事から昭和60年(1985)に長野県の県宝に指定されています。
光前寺三門は文政元年(1818)に火災で焼失後の嘉永元年(1848)に再建されたもので、三間三戸、入母屋、こけら葺き、間口30尺(9.09m)、八脚二重楼門、上層部には釈迦如来像と十六羅漢像が安置、棟梁は美濃国中津川出身の工匠横井和泉藤原栄忠、平成23年(2011)に駒ヶ根市指定文化財に指定されています。
光前寺本堂は嘉永4年(1851)に再建されたもので入母屋、こけら葺き、妻入、桁行5間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造板張り、内部の内陣には本尊である不動明王音日八大童子像が安置されています。光前寺の境内は古刹に相応しく、総門から三門にかけての参道には樹齢数百年の大木が並木を作り出し、石垣には極めて貴重な「光苔」が自生、本坊には室町時代に作庭された庭園(築山泉水庭)が広がり、春には約70本のシダレ桜が咲き誇り、それらの構成要素が大変貴重である事から、境内全域6.7ヘクタールが、名称「光前寺庭園」として昭和42年(1967)に国指定名勝に指定されています。
【 光前寺と霊犬早太郎伝説 】-光前寺は霊犬早太郎伝説でも知られています。古くから遠江の見附(現在の静岡県磐田市)には怪物が現れ村々に大きな被害を与えていました。それを防ぐ為、村の鎮守である矢奈比売神(現在の見附天神)の例祭には年頃の娘を柩 (白木の箱)に入れて怪物に捧げることで何とか村の平穏を保っていました。延慶元年(1308)、その話を聞いた1人の僧が怪物について調べると光前寺で飼われ霊犬と知られている早太郎を恐れていることを知ります。僧は光前寺の住職に訳を話し早太郎を借り受けると翌年の例祭に娘の代わりに早太郎を棺に入れ怪物に捧げます。怪物が棺を開けると早太郎は猛然と立ち向かい、激闘の末怪物を退治することが出来ました。しかし、早太郎も負荷でを負い、光前寺にたどり着くと死に絶えたと伝えられています。
【 光前寺と雨乞い信仰 】-光前寺は古くから雨乞いに御利益があるとして信仰されてきました。その中心となったのは「青獅子」で旱魃が起きると、当面を持ち出すと決まって雨が降ると信じられきました。それと同様に駒ヶ岳の中岳(標高:2927)の山頂付近にある大岩を「雨乞石」と称し、傍らに祠が設けらていました。大正13年(1924)、当地方で大旱魃が発生し、村人は水を求めて激しい争いとなりました。そこで、光前寺の「青獅子」を密かに持ち出して、それを担いで駒ヶ岳まで登拝し濃ヶ池の霊水をかけ雨乞い祈願をしたところ、突如として雨が降りだし村人は救われ争いも無くなったそうです。村人達は光前寺の「青獅子」に感謝の意から「雨乞石」に「雨乞記念石大正十三年八月 昇天之際 赤穂倉田利市 於此石上祈願 成就」、雨宿りした石室には「青獅子岩」と刻んだそうです。
又、明治21年(1888)には大規模な山火事が発生し5日5晩燃え続けた為、やはり「青獅子」に降雨祈願を行い、雨により山火事を消し止めたとされます。現在の「青獅子」は元和6年(1620)に熱田出身の森満家法眼と小拾郎満泰が当時の光前寺の住職法印尊應に対して奉納したもので、桧材、面長44.5cm、幅39.5cm、高さ29.0cm、彩色仕上げ、平成25年(2013)に駒ケ根市指定文化財に指定されています。基本的には光前寺の秘宝として人目に付く事はありませんが、7年に1度本尊である不動明王が御開帳の時期に公開されています。光前寺には陵王(龍王)・宇転王(優填王)の両面も伝わっており、何れも駒ケ根市指定文化財。
光前寺の文化財
・ 光前寺弁天堂−室町時代−入母屋、一間堂−国指定重要文化財
・ 光前寺庭園−室町時代−国指定名勝
・ 光前寺三重塔−文化5年−高さ17.1m−長野県指定県宝
・ 絹本著色十二天像(12幅)−南北朝時代−縦86.3p−長野県指定県宝
・ 絹本著色地蔵十王図(11幅)−室町時代−長野県指定県宝
・ 仁王像(1対)−大永8年−桧材、寄木造−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 陵王面−享禄3年−木造、彩色、頂から顎まで24.6p−駒ヶ根市指定文化財
・ 光前寺三門−嘉永元年−三間三戸、八脚2重楼門−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 青獅子−元和6年−面長44.5p、木造、彩色−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 宇転王面−木造、彩色、頂から顎まで32.3p−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 仏涅槃図(絵画)−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 両界曼荼羅図(絵画)−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 阿弥陀如来図(絵画)−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 釈迦如来十六羅漢図(絵画)−駒ヶ根市指定有形文化財
・ 愛染明王図(絵画)−駒ヶ根市指定有形文化財
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