【 概 要 】−小笠原秀政は永禄12年(1569)に小笠原貞慶と日野輝資の養女(高畠長成の娘)との子供として生まれました。貞慶は織田信長に従っていたものの天正10年(1582)の本能寺の変で信長は自刃、空白域となった信濃国には徳川家康が侵攻した為、貞慶は貞政(秀政)を人質に出す事で徳川家に臣従し松本城(長野県松本市)の城主に復権しています。貞政(秀政)は家康の側近である石川数正に預けれ、天正13年(1585)には数正と共に徳川家を出奔し豊臣秀吉に従うようになり、秀吉からは「秀」の字が与えられ「秀政」を名乗るようになっています。天正17年(1589)に小笠原家の家督を継ぐと同年には家康の長子である信康の娘登久姫と婚姻関係を結び徳川家との関係を深くしています。
天正18年(1590)の小田原の役の際、貞慶が改易になっていた尾藤知宣に力を貸した事で改易となり、秀政も連座、これを機に徳川家の家臣となっています。同年、家康の関東移封に随行し古河城(茨城県古河市)3万石に配されています。秀政は慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは徳川方に与し宇都宮城(栃木県宇都宮市)の守備に当たり、その功により慶長6年(1601)、飯田城(長野県飯田市)5万石が与えられ飯田藩を立藩しています。
秀政は社寺の保護も行い小笠原家の菩提寺である開善寺は前例に従い寺領35石を安堵、飯田城の鬼門鎮守として冨士山稲荷神社を創建、慶長9年(1604)に専照寺を現在地に移転、慶長10年(1605)に東照寺に禁制発布、慶長11年(1606)に瑠璃寺に禁制発布、慶長15年(1610)に長源寺に7石、長光寺に5石、長蓮寺に6斗6升、教蔵寺に9斗4升、光蓮寺に3斗の寺領を寄進、慶長17年(1612)には小野神社に伊那郡松島村の社地を寄進、慶長18年(1613)には藤宝寺を現在地に遷し寺号を羽広山仲仙寺(長野県伊那市)に改めています(仲仙寺には慶長17年に禁制を発布)。同年には鳩ヶ嶺八幡神社の社殿を修築しています。
慶長12年(1607)に登久姫が飯田城で死去すると慶林寺に埋葬し、登久姫の法名に因み寺号を峯高寺と改めています。同年には家督を小笠原忠脩を譲りますが、年齢が12歳だった事から事実上秀政が藩政を司ったと思われます。領内の整備として主要街道だった三州街道を整備し慶長13年(1608)には家臣である春日淡路守に命じて宿場町である市田宿と大島宿の条規を定めています。同年には伊那郡小平村、慶長14年(1609)には伊那郡伊久間郷と伊那郡上河路村開善寺分の検地が行われ、慶長17(1612)には木下陣屋が設けられ家臣である二木政実が配されています。
小笠原秀政は慶長18年(1613)に松本藩(長野県松本市:藩庁松本城)8万石で移封になると領内整備を行い、特に参勤交代で利用する善光寺西街道の整備に尽力し、宿場町である青柳宿や麻績宿、稲荷山宿、郷原宿、保福寺宿などの町割や本陣や宿役人の選定、条規の発布などを行っています。秀政は領内に法度を割り当て家臣である春日淡路に命じて安曇郡一本木村や安曇郡小室村の検地を実施しています。
秀政は社寺の保護も行い慶長19年(1614)には小野神社(長野県塩尻市)に社領10石を寄進、同年には阿礼神社(長野県塩尻市)の社殿を修復、同年には仁科神明宮(長野県大町市)に禁制(大町市指定文化財)を発布(社領15石寄進)、同年には古川寺(長野県朝日村)に禁制を発布、同年には千手院に寺領寄進、同年には筑摩八幡宮で武運長久を祈願して社領30石を寄進、次いで兎川寺に寺領を寄進、同年には岩殿寺の旧領を安堵しています。
同年には沢渡神明神社に祭料5石を安堵、同年には筑摩八幡宮に禁制発布、同年には薄宮神社に禁制発布、同年には八幡神社に禁制発布、同年には牛伏寺に禁制発布、同年には穂高神社に社領10石を寄進、同年には正麟寺に寺領20石寄進、同年には成就院に寺領10石寄進、同年には長興寺に寺領15石寄進、同年には兎川寺に寺領20石寄進、同年には広沢寺に寺領50石寄進しています。
同年には開善寺に寺領100石を寄進、同年には天満天神社を現在地に遷座し社殿を造営、鎌田村の天神を松本宮村の明神神社に合祀、同年には安楽寺に寺領50石を寄進、同年には霊松寺に寺領10石寄進、同年には満願寺に寺領10石寄進、同年には若沢寺に寺領10石を寄進、同年には浄林寺に寺領10石を寄進、同年には大澤寺に寺領30石寄進しています。慶長20年(1615)には住吉神社(安曇野市)に社領三反歩を寄進しています。
慶長20年(1615)に発生した大坂夏の陣に参陣し、激戦となった天王寺口の戦いで忠脩は討死、秀政も深手を負い間もなく死去、享年47歳、戒名:両選院殿義捜宗玄大居士。墓地は水野忠直によって建立された小笠原家墓所にあります。
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