皆神神社

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概要・歴史・観光・見所
皆神神社(長野市松代町)概要: 皆神山(標高:679m)は円錐形の山姿や皆神神社時折見せる群発地震(松代群発地震の震源地)や地殻運動による発光現象、麓には「松井の泉」と呼ばれる清水が湧き出し生活や生産に大きく関わっていた事などにより古代人の素朴な自然崇拝が源になったと思われます。古墳時代には小丸山古墳や牧内古墳群(2基)、南大平古墳(3基:その内の1基が岩戸神社)などが築かれるなど次第に聖地化され、天の岩戸伝説や天狗伝説などの伝説が流布されるようになり、近年は皆神山は「太古に作られた世界最大のピラミッド」と言う説がある程です。又、皆神山は安山岩質の溶岩ドームで構成され、良質な石材を産出し、松代城の石垣としても利用されています。皆神神社は皆神山の山頂に鎮座する熊野出速雄神社、侍従神社、富士浅間神社、嘉佐八郎社などの総称で古くから神仏習合の修験場として繁栄していました。

現在、皆神神社の北北西に境内を構える玉依比売命神社と強く関係を持つようになり、社家である小河原氏が明治時代以降に皆神神社と呼ばれる熊野出速雄神社を創建、又は、別当的な役割を担うようになりました。玉依比売命神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社で、長野市松代町を代表する古社として御神体として古墳時代の勾玉・管玉が祭られている事から、皆神山に築造された古墳の副葬品とも関係があるのかも知れません。

一方、後年に制作されたと思われる皆神神社の社伝によると、養老2年(718)に出速雄命を祭った事を創建年とし、暗に、「日本三大実録」に記載されている貞観2年(860)2月に信濃国従五位下の位を授かった「出速雄命」が当社であるかのようにしています。しかし、長野県で出速雄命を祭る神社は複数あり資料が少ない事からどの神社かは断定するに至っていません。そういう意味では皆神神社も候補社ではありますが、熊野信仰が浸透する過程で、熊野神の一神である速玉男命との類似性と日本三大実録に記載されている格式の高さをうまく取り入れ後の世に勧請された印象を受けます。※松代町史では皆神神社を産土神と位置付けている為、社伝を尊重する立場をとっているようです。さらに、松代の以前の名称である海津の由来になったとされる会津比売神社の祭神、會津比賣命は出速雄命の御子神とされます。

皆神神社が歴史的に明確になるのは室町時代後期の小河原家吉(供秀)からで、現在皆神神社に残され、往時は本地仏だった大日如来坐像、阿弥陀如来坐像、弥勒菩薩坐像が永正4年(1507)に奉納されています(3躯何れも長野市指定文化財)。この3躯の仏像は、皆神山の山頂を形成する3つの峰(東の峯・中の峯・西の峯)を熊野三山を模してそれぞれの本尊と見立てもので、この時には既に熊野信仰が確立し、さらに、現在の熊野出速雄神社(皆神神社)社殿も同時期である15世紀末から16世紀初頭の建築と推定され、規模からしても皆神山修験の勢力の大きさが窺えます(熊野出速雄神社社殿は長野県の県宝に指定されています)。

家吉(供秀)の跡を継いだ、宥賢は戦国時代に佐久市内にある内山城の城主、内山氏出身の人物とされ、形式上は家吉(供秀)の養子となり熊野出速雄神社(皆神神社)の別当職を受け継いだようです。宥賢は皆神山修験の発展に尽力し、聖護院宮(京都府京都市左京区聖護院中町:日本の修験道における本山派の中心寺院、修験道を統括する総本山)から北信四郡(埴科郡・更科郡・水内郡・高井郡)の修験者行事(取締)に命ぜられ、大日寺和合院や百体、侍従坊などと称しました。 弘治2年(1556)に宥賢が死去すると、正徳年間(1711〜1715年)には侍従天狗坊が与えられ、後継者は引き続き和合院を称して熊野出速雄神社(皆神神社)の祭祀を司り、宥賢を神格化して「侍従坊大天狗明王」として奉斎、さらに慶長6年(1601)には全信州の修験者の総取締に就任するなど大きな権限を得ました。

皆神神社境内は仁王門(現在の随時門)が正面、その直線上に配された侍従坊が本堂と、拝殿を兼ねる施設、その背後の高台に本殿として熊野出速雄神社の社殿があり、最奥地の高所には富士浅間神社が社殿を変えました。明治時代に入ると神仏分離令により別当寺院だった和合院は廃寺となり、侍従坊は侍従神社に社号が改められ、総じて皆神神社となりました。又、別当職だった宥謙は還俗し、水上姓を名乗り松代藩や松代県で文学助教として人材教育に尽力しています。神社山門(随神門)は切妻、桟瓦葺、三間一戸、八脚単層門、内部には随神が祭られています。

熊野出速雄神社(皆神神社境内社)概要: 熊野出速雄神社の創建は養老2年(718)出速雄命の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。出速雄命は諏訪大社の祭神である健御名方命の御子神として格式が高く貞観2年(860)には従五位下、貞観14年(872)には従五位上、元慶2年(878)には正五位下に列しました。その後、神仏習合し熊野権現皆神神社(長野市松代町)(伊邪那岐命・伊邪那美命・伊邪那美命)を勧請し皆神山の3つの峰である西の峰、中の峰、 東の峰にはそれぞれ大日如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置され熊野三社大権現と呼ばれる呼ばれるようになりました。中世以降は修験場として繁栄し信濃の北半分は戸隠神社、南半分は皆神神社が中心となり、本山派山伏に限っては皆神神社が信濃全域の支配権を得ていました。歴代領主からも庇護され江戸時代には社領200石が安堵されていました。明治時代初頭に発令された神仏分離令と修験廃止令により仏式と修験が排され(別当寺院だった和合院は廃寺)現在の社号である「熊野出速雄神社」に改称しています。現在の本殿は康応元年(1389)に再建されたもので撞木造、妻入、鉄板葺、梁行3間、桁行5間、1間向拝付、室町時代初期の社殿建築で中世修験道の遺構として貴重な事から平成6年(1994)に長野県県宝に指定されています。皆神神社の境内は本殿の他、随神門(旧仁王門と思われる)が現存し、社宝として大日如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩を所有するなど神仏混合時代の名残が残り境内は荘厳な雰囲気に満ち溢れています。

侍従神社(皆神神社境内社)概要: 侍従神社の祭神である侍従神は内山城の城主内山満久の皆神神社(長野市松代町)3男満顕とされる人物です。内山満久がどの様な人物かは不詳ですが、長野県佐久市にある内山城の城主は内山氏である事から、その一族だったと思われます。内山城は天文15年(1546)、武田信玄の佐久侵攻により落城している為、内山氏は没落の憂いにあった為、一族の中には出家する者もあった事が推察されます。皆神神社に伝わる伝承によると満顕は13歳の時に京都の鞍馬山で修行を行い、その後も全国の霊山で修行を重ねて内山氏の滅亡した後に皆神山に登り皆神山修験の基礎を築いたとされます。修験僧時代には「大日寺和合院宥賢」と称し、皆神山では「侍従天狗坊」と呼ばれていたようで、弘治2年(1556)に死去する直前に、自分は不動明王の化身になる事を遺言で残した事から、死去後は「侍従坊大天狗明王」として祭られるようになっています。明治時代の神仏分離令により社号を「侍従神社」に改め、皆神神社の一翼を担うようになりました。社殿は江戸時代後期の弘化3年(1846)に建てられたもので、入母屋、銅板葺、正面千鳥破風、桁行4間、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付。

皆神神社の文化財
・ 熊野出速雄神社本殿-康応元年-撞木造-長野県県宝
・ 木造大日如来坐像-永正4年-寄木造,像高33p,彩色-長野市指定文化財
・ 木造阿弥陀来坐像-永正4年-寄木造,像高33p,彩色-長野市指定文化財
・ 木造弥勒菩薩坐像-永正4年-寄木造,像高33p,彩色-長野市指定文化財
・ 皆神山のクロサンショウウオの産卵池-長野市指定天然記念物

皆神神社(社殿・境内):写真

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