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西楽寺(長野市松代町)概要: 関谷山西楽寺は長野県長野市松代町西条に境内を構えている浄土宗の寺院です。西楽寺の創建は天正2年(1574)に西条氏が開基となり名誉善室を招き開山したのが始まりとされます。
前身寺院は、応永年間(1394〜1428年)に関屋上野介が開基となり、武蔵国の増上寺、初代住職である酉誉聖聡を招いて開山したのが始まりと伝えられています。
関屋氏は諏訪神氏の一族とされ、大祝為仲の後裔、行光が関屋村を本貫とした事から地名に因み「関屋」姓を掲げています。
応永12年(1405)に関屋氏の氏神である源関神社の社殿を関屋市兵衛が本願主として再建している事から、同年代の上野介と市兵衛は関係があった可能性があります。
明徳年間(1492〜1500年)に村上氏の侵攻により関屋氏は没落した事から、当寺も外護者を失い衰微したと思われます。
その後、村上氏の一族である清野氏の庶流である西条氏が当地に配され、村上氏が没落後は武田信玄に従い西条氏の名跡を継いだ清野信清が名を西条美作守治部少輔祐意と改め、村松土佐守と共に当寺を篤く帰依したそうです。
祐意は永禄12年(1569)に中村神社(西条大国明神社)の神殿再建にも尽力し、信心深い人物だったのかも知れません。
天正2年(1574)には祐意の跡を継いだ弥三郎昌直が関屋村に境内を構えていた当寺を現在地に遷し再興、鎌倉光明寺から名誉善室を招いて中興開山し寺号を西楽寺に改めています。
一方、別説によると天正2年(1574)に西条尚昭が開基となり、称蓮社名誉善室和尚が開山したとも云われています。
天正10年(1582)に武田家が滅びると、西条氏は越後上杉家を頼り、当地を離れた為、西楽寺は再び外護者を失っています。
江戸時代初期になると松代藩初代藩主真田信之の三男で埴科藩1万7千石の第2代藩主であった真田信重が西楽寺を帰依し、篤く庇護していたとされます。
しかし、慶安元年(1648)に信重が武蔵国鴻巣(現在の埼玉県鴻巣市)で死去すると、鴻巣の有力寺院である勝願寺に葬られました。
又、信重には跡継ぎがいなかった為、埴科藩は廃藩となり石高(領地)は本藩である松代藩(藩庁:松代城)に返上されています。
そこで、真田信之は正保年間(1645〜1648年)に焼失していた西楽寺を再建、境内には霊屋が建立され、奥方も信重の後を追うように翌年の12月9日に亡くなった事から、内陣に設置された仏壇には本尊の阿弥陀如来像と共に信重夫妻の位牌が安置されました。
その後は松代藩真田家が庇護し、明治維新まで毎年、回向料40俵が寄進され続けました。
現在の西楽寺霊屋(真田信重霊廟)は建立当時の建物で木造平屋建て、一重宝形造、こけら葺 、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付き。
内部は前面1間が外陣で格子戸で囲われた内陣の天井は格天井、外壁、内壁共に漆塗りの極彩色で彩られた豪華な霊廟建築となっています。
西楽寺霊屋(真田信重霊廟)は江戸時代初期に建てられた数少ない霊廟建築の遺構で全国的にみても珍しい工法が採用されるなど大変貴重な事から昭和46年(1671)に前机(1脚)、釣燈籠(2個)共に国指定重要文化財に指定されています。
又、霊屋の本尊である木造阿弥陀如来立像は檜材、寄木造り、像高96.7p、漆箔、彫眼、藤原時代後期に制作されたと推定される木像で、貴重な事から昭和42年(1967)に長野市指定重要文化財に指定されています。山号:関谷山。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。
【 西楽寺:菩提者(真田信重) 】−真田信重は慶長4年(1599)、真田家宗家である真田昌幸の嫡男真田信之の3男として生まれました。生母は一般的に信之の正室である小松姫とされますが、小松姫は女児しか産んでいないとの説もあり、それに従えば側室の誰かという事になります。
元和8年(1622)、信之が松代藩(藩庁:松代城)13万石で移封になると領内7千石が分与され旗本となり、寛永16年(1539)に次兄真田信政が沼田領主になった際、信政が領していた埴科領1万が与えられ合計1万7千石で埴科藩2代藩主に就任しています。
慶安元年(1648)武蔵国鴻巣にて死去、享年48歳、菩提は武蔵鴻巣(埼玉県鴻巣市)の勝願寺に葬られ、翌年の慶安2年(1649)に死去した正室である鳥居忠政の6女と共に墓碑が建立されました(勝願寺には小松姫の墓碑もあり、その様な関係から菩提寺になったと思われます)。
松代では信重が帰依していた西楽寺(長野市松代町)に霊廟が設けられ2人の位牌が安置されました。
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