松代城(海津城)概要: 松代城(海津城)の築城年代は不詳ですが、北信国衆として当地を支配した清野氏の居館として設けられたのが始まりとされます。戦国時代に入ると武田家の侵攻により当地が武田領となり、上杉領に接する川中島への軍事的重要拠点の1つとなりました。永禄3年(1560)に武田家家臣山本勘助が短期間で本格的な城郭に築城されたと伝えられ、実際川中島の戦いでは武田方の拠点として機能し大きな役割を担いました。当初は海津城と称し、第四次川中島の戦いでは城代の春日虎綱(高坂昌信)が籠城戦を展開し、武田信玄(武田氏館の館主)の本隊を迎え入れるなど重きを成しました。天正10年(1582)に武田家が滅ぶと織田領となり信長の家臣家臣森長可の支配下に入りましたが本能寺の変で信長が自害すると戦線を維持出来なくなった長可が自領に撤退し、変わって上杉景勝が信州を南下し家臣である須田満親が城主として派遣されました。慶長3年(1598)、景勝が会津(現在の福島県会津若松市)に移封になると豊臣秀吉の家臣蒲生秀行の与力大名である田丸直昌が松代城に4万石で入り石垣などが整備されています。慶長6年(1600)、森忠政が13万7千5百石で松代城に入封、松代城は大改修され二の丸と三の丸の拡張を行い現在に見られるような規模となります。
慶長8年(1603)、忠政が移封になると松平忠輝が支配し(本拠は越後高田:現在の新潟県上越市)、忠輝が改易になると松平忠昌(12万石)、酒井忠勝(10万石)、岩城吉隆(1万石・後の佐竹義隆)が短期間支配し元和8年(1622)に真田信之が13万石で上田藩(藩庁:上田城)から移封されると海津城から松代城へ改称し(忠輝時代に改称したとも)、花の丸などの拡張が行われ松代藩の藩庁、藩主居館が整備されました。その後は真田家が改易などが無く10代藩主を歴任し明治維新を迎えています。松代城は明治初頭に廃城となり明治6年(1873)の火事なども重なりほとんどの建物を失いましたが、本丸を中心に石垣や土塁、水堀などの遺構が残り昭和56年(1981)に国指定史跡に指定されています。その後、太鼓門や北不明門などが復元され平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。
【 松代城・縄張り 】-松代城は背後を天然の堀である千曲川を控えた堅固な輪郭式の平城で、本丸背後を外堀と見立てた千曲川を配し、残りの3方向を2ノ丸、大手口には丸馬出を設けて三日月堀がそれを囲うといった甲州流築城術(武田家の築城術・縄張り)の特徴が見られます。本丸を三方を二の丸で囲み丸馬出や三日月堀の外側に三の丸、江戸時代に入り花の丸御殿を拡張しています。本丸には石垣を多用しているものの、それ以外の大部分は土塁で構成され真田家の置かれている立場から石高に比較して小規模な縄張りとなっています。石垣の石は城から見て南東方向に位置し頂上に皆神神社が鎮座している皆神山で産出される安山岩が利用されています。本丸の4隅には2重櫓が3基設けられ北西の隅だけは天守台として計画され北東隅は空地となっています。本丸には3箇所の出入口があり大手筋にある太鼓御門と、搦手門にあたる北不明門は枡形の櫓門で東不明門も櫓門ながら通常時では閉門しており、太鼓御門が利用出来ない場合を想定して設けられました。本丸には当初、藩主の御殿が設けられていましたが、度重なる水害や火災など被害を受け、面積的にも狭小だった為、明和7年(1770)以降は花の丸に御殿が移されています。
松代城の周辺には武家屋敷、稲荷山宿(長野県千曲市稲荷山:善光寺西街道の宿場町、街道沿いの宿場町で最大の商業町として繁栄)と飯山宿(長野県飯山市:飯山城の城下町、十日町街道の起点)を結ぶ谷街道を城下に引き込み街道沿いには町人町を町割しました。現在は海津城址公園として整備され、本丸表門などが順次再建され、城下には藩主真田家の城外御殿である新御殿(真田邸)や、鐘楼、藩校文武学校、真田家の菩提寺長国寺、小松姫の菩提寺大英寺、真田信重の菩提寺西楽寺、数多くの武家屋敷群などがあります。
【 第四次川中島の戦い 】−関東管領に就任した上杉謙信(春日山城の城主)は永禄4年(1561)に関東地方に進出し、小田原北条氏の居城である小田原城(神奈川県小田原市)を取り囲みましたが、落城には至らず膠着状態が続きました。すると、北条家と同盟関係にあった武田信玄は川中島に近い海津城(松代城)を拠点にして北信濃に進出した為、謙信は関東から撤退を余儀なくされました。謙信は目標を海津城(松代城)を攻略に切り替え、北信濃を掌握し、後顧の憂いを無くしてから再度関東進出を目論見、川中島を見下ろせる妻女山に陣を張りました。
陣容は謙信は1万3千の兵を率いて妻女山に布陣し、後方支援や補給、補給路の確保の兵が善光寺(長野県長野市)に5千を配させ、対する信玄は2万の兵を率いて一端、塩崎城(長野県長野市篠ノ井塩崎)に入り、様子を見てから海津城(松代城)に入りました。その後、双方膠着状態が続き、最初に痺れを切らした武田方の軍師山本勘助は軍を2手に分け、1手が妻女山を攻撃し、下ってきた上杉軍を残りの1手が迎え撃ちという、所謂「啄木鳥戦法」を具申し受け入れられました。9月9日の深夜、別働隊1万2千を編成した武田家の重臣高坂昌信と馬場信房は海津城(松代城)から妻女山に向けて出陣、武田信玄は残りの8千を本隊として、上杉軍が下ってくると予想された八幡原に布陣しました。
翌日の早朝、川中島は濃い霧が発生し視界が遮られる中、その霧が晴れると、武田方の目前に既に臨戦態勢を整えた上杉方の軍勢の姿が現れました。一説によると上杉謙信(春日山城の城主)は妻女山から見下ろした際、武田方の行動に不審な点が幾つも見られた事から、作戦を見破り、深夜のうちに全軍が山を下り川中島に布陣し「車懸りの陣」により絶え間なく武田方に攻撃を加え武田信繁をはじめ、山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次などの主要な家臣を次々に討ち取ったとしています。
しかし、戦いが長引くと、武田方の別働隊1万2千が妻女山から急襲し、今度は武田方が上杉方を挟撃する陣容となり、謙信は不利を悟り、本陣のあった善光寺まで一端退き、その後、越後に引き上げました。武田方も追撃する余力が残っておらず結局兵を引いています。損害自体は主要な家臣や数多くの兵を失った武田軍の方が甚大でしたが、上杉謙信の目標だった海津城(松代城)攻略は出来なかった事から作戦的には失敗しています。
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