松代城(海津城)

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概要・歴史・観光・見所
松代城(海津城)概要: 松代城(海津城)の築城年代は不詳ですが、戦国時代に川中島で対峙した上杉軍に対する軍事的重要拠点の1つとして永禄3年(1560)に武田家家臣山本勘助が短期間で造らせたの始まりと伝えられています。実際川中島の戦いでは武田方の拠点として機能し大きな役割を担いました。武田家が滅ぶと織田領となり信長の家臣家臣森長可の支配下に入りましたが本能寺の変で信長が自害すると戦線を維持出来なくなった長可が自領に撤退し、変わって上杉景勝が信州を南下し家臣である須田満親が城主として派遣されました。慶長3年(1598)、景勝が会津(現在の福島県会津若松市)に移封になると豊臣秀吉の家臣蒲生秀行の与力大名である田丸直昌が松代城に4万石で入り石垣などが整備されています。慶長6年(1600)、森忠政が13万7千5百石で松代城に入封、松代城は大改修され二の丸と三の丸の拡張を行い現在に見られるような規模となります。

慶長8年(1603)、忠政が移封になると松平忠輝が支配し(本拠は越後高田:現在の新潟県上越市)、忠輝が改易になると松平忠昌(12万石)、酒井忠勝(10万石)、岩城吉隆(1万石・後の佐竹義隆)が短期間支配し元和8年(1622)に真田信之が13万石で上田藩(藩庁:上田城)から移封されると海津城から松代城へ改称し(忠輝時代に改称したとも)、花の丸などの拡張が行われ松代藩の藩庁、藩主居館が整備されました。その後は真田家が改易などが無く10代藩主を歴任し明治維新を迎えています。松代城は明治初頭に廃城となり明治6年(1873)の火事なども重なりほとんどの建物を失いましたが、本丸を中心に石垣や土塁、水堀などの遺構が残り昭和56年(1981)に国指定史跡に指定されています。その後、太鼓門や北不明門などが復元され平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。

松代城・縄張り: 松代城は背後を天然の堀である千曲川を控えた堅固な平城で、本丸を三方を二の丸で囲み丸馬出や三日月堀の外側に三の丸、江戸時代に入り花の丸御殿を拡張しています。本丸には石垣を多用しているものの、それ以外の大部分は土塁で構成され真田家の置かれている立場から石高に比較して小規模な縄張りとなっています。本丸の4隅には2重櫓が3基設けられ北西の隅だけは天守台として計画され北東隅は空地となっています。本丸には3箇所の出入口があり大手筋にある太鼓御門と、搦手門にあたる北不明門は枡形の櫓門で東不明門も櫓門ながら通常時では閉門しており、太鼓御門が利用出来ない場合を想定して設けられました。本丸には当初、藩主の御殿が設けられていましたが、度重なる水害や火災など被害を受け、面積的にも狭小だった為、明和7年(1770)以降は花の丸に御殿が移されています。

松代城:写真

太鼓門
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松代城:内堀・太鼓門前橋 松代城:内堀・東不明門前橋 松代城:二の丸南門 松代城:二の丸石垣門 松代城:内堀
松代城:太鼓門(一の門・楼門) 松代城:本丸石垣 松代城:本丸石垣 松代城:戌亥櫓台 松代城:北不明門
松代城:北不明門(二の門・高麗門) 松代城:北不明門(一の門・楼門) 松代城:二の丸・土塁・空掘 松代城:本丸石垣・水堀 松代城:二の丸


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