進徳館(伊那市高遠町)概要: 進徳館は江戸時代末期の万延元年(1860)、高遠藩8代藩主内藤頼直の命により開設した学問所(藩校)です。これまでも、高遠藩では藩校の開校が望まれていましたが、他藩にもれず、高遠藩の財政難が慢性化し、なかなか開校には至りませんでした。8代藩主内藤頼直は師事していた中村元起(江戸幕府直轄の教学機関・施設である昌平坂学問所で林復斎に師事し塾頭になった人物。)の進言もあり、高遠城の三之丸の内藤蔵人の屋敷が丁度空家だった事から、屋敷を改造して校舎とし、岡野小平治を文武総裁、中村元起と海野幸成を教授として迎え藩士達の教育にあたらせました。進徳館には文学部、武学部の2つの学部を設置し和学、漢学、馬術、剣術、砲術など文武両道の向上を図り大学頭林復斎により易経の「君子進徳修業、忠信所以進徳也」に因み"進徳館"と命名されました。
文久2年(1862)には辰野村出身の小沢伝十が孔子像を献上した事を受け孔子廟が設けられ、元治2年(1865)には北福地村出身の住民4名が孟子像、顔子像、曽子像、思子像の4像を献上し五聖像が揃った事で盛大な式典が行われました。藩士の子弟は8歳から15歳までを幼年組として強制的に出席させ、それとは別に中年組があり、それぞれ学問習得にあたらせ廃校まで約500名の人材を輩出し、卒業生の多くが明治維新後に教師になった為、長野県の近代教育に大きな影響を与えました。
明治4年(1871)に廃藩置県が行われ高遠藩が廃藩になると、高遠県学校に改められ、明治5年(1872)に廃城令により高遠城が廃城になると進徳館の一部が取り壊され、明治6年(1873)に廃校となっています。現在の建物は文学部のもので木造平屋建、八棟造り、茅葺、西棟(聖廟、師範詰所、教場、講堂)、東棟(生徒詰所)、表門、玄関が現存し、数多くの資料(書籍、器具等)が残されました。進徳館は高遠藩の藩校の遺構として大変貴重な存在で長野県内では松代文武学校と進徳館の2例しかない事から、「高遠城」の一部として昭和48年(1973)に国指定史跡に指定されています。五聖像は当時の教育の資料として貴重な事から平成14年(2002)に伊那市指定有形文化財に指定されています(現在は高遠町歴史博物館に収蔵)。
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