伊那市: 高遠城(別名:兜山城)

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概要・歴史・観光・見所
高遠城(兜山城)概要: 高遠城の築城年は不詳ですが中世、周辺領主だった高遠氏の居城として築かれたと推定されています。高遠城高遠氏は諏訪大社の祭祀を司る大祝家の惣領である諏訪氏の一族で当初は諏訪氏に従っていましたが、戦国時代に入ると高遠氏は主家である諏訪家からの独立を画策を度々繰り返し天文11年(1542)に当時の当主高遠頼継は武田信玄と共同で諏訪地方に侵攻し諏訪家当主諏訪頼重は捕縛、甲府の東光寺(山梨県甲府市)に幽閉された後に自刃し諏訪惣領家は事実上滅亡しました(名跡は後の武田勝頼が諏訪勝頼として継いでいます)。武田家との蜜月は短く天文14年(1545)に武田信玄によって攻略され、その後は従う姿勢を見せますが天文21年(1552)に頼継が甲府に召喚されると捕縛され自害させられた事で事実上没落します。

高遠城は伊那地方の軍略的拠点として重要視され天文16年(1547)に山本勘助と秋山信友が高遠城の大改修を行い現在見られる城郭の原形が築かれます。永禄5年(1562)に武田勝頼が高遠城主となり(勝頼は信玄と諏訪御料人との子供で諏訪惣領家、又は高遠家の名跡を継いだと云われ、諏訪勝頼を名乗っています)、元亀元年(1570)に勝頼が躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)に移った後も信玄の実弟武田信廉や異母弟の仁科盛信など血族が勤めるなど武田氏にとって高遠城は重要視されました。天正3年(1575)、勝頼が長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、両軍により信濃・甲斐への侵攻が始まり天正10年(1582)には織田信忠(織田信長長男)が5万の兵を率いて信濃深部まで侵攻します。多くの武田方の武将が離れる中、仁科盛信は僅か3千の兵で向い武田家にとっては最大の抵抗を試みましたが多勢に無勢、激戦むなしく高遠城は落城します。

天正10年(1582)に武田家が滅ぶと織田家家臣で高遠城の攻略戦で功のあった毛利長秀が城主となりますが、数ヵ月後本能寺の変によって織田信長が倒れると尾張に退去し、代わって逸早く武田家から離反した木曾氏が高遠に侵攻し高遠城を占拠します。その頃、旧武田領を巡り徳川家と北条家が甲斐、諏訪、信濃に侵攻、高遠城には徳川家が侵攻し木曾氏は本領に撤退します。高遠城は徳川家に従った高遠氏の旧家臣保科正俊が城主となり、家康が関東移封後、豊臣秀吉の家臣になった毛利秀頼(長秀)が10万石で入封し復権を果たします。その後は妹婿である京極高知が跡を継ぎ、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は以前の城主保科正直の子である正光が2万5千石で復権し高遠藩を立藩しています。

保科正光は子供がなかった為、徳川秀忠の御落胤とされる保科正之を養子に迎え入れ5千石が加増、正之はその後、山形藩20万石、会津藩23万石と加増を重ね3代将軍徳川家光の片腕として手腕をを振るい名君として名を残しています。正之移封後は鳥居忠春が3万2千石で入封、元禄4年(1691)に内藤清枚が3万3千石で入封すると内藤家が8代に渡り藩主を歴任し明治維新を迎えています。内藤氏時代に改めて高遠城が改修さら天守閣の代わりとなる三層の辰己櫓や櫓門など近世城郭として体裁を整えています(縄張り自体は中世時代を踏襲し、本丸内部の建物などが刷新された)。明治維新後、明治4年(1871)に廃藩置県が施行され高遠藩が廃藩になると高遠城も廃城となり、多くの建物は解体、取り下げとなりましたが、郭の形状や空掘、土塁、一部の石垣などの遺構が残り三の丸には学問所である進徳館が現存しています。

【 高遠城の縄張り 】-高遠城は月誉山の西丘陵に築かれた平山城で東側が月蔵山、北西側が藤沢川、南西側が三峰川に囲まれた天然の要害で本丸を中心に二の丸・南曲輪・笹曲輪・勘助曲輪・法幢院曲輪など郭を配置しそれぞれを深い空堀で分断、要所には虎口を設けて容易には本丸に辿り着けない構造になっていました。現在の高遠城は太鼓櫓が再建された他、問屋門や大手門(かなり改造されている)が移築され高遠城址公園として整備されています。明治8年(1876)に高遠城が公園になった際には旧藩士達が「桜の馬場」から桜を移植、それらの桜は昭和35年(1960)に長野県指定天然記念物に指定され城内一帯は平成2年(1990)に日本さくら名所100選に選定、弘前城(青森県弘前市)、吉野山(奈良県吉野町)と共に日本3大桜名所に数えられています。高遠城は昭和47年(1972)に国指定史跡に指定され、平成18年(2006)に日本100名城に選定されています。

【 高遠城大手門:概要 】-案内板によると「 この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和59年(1984)まで正門として使用されていた。明治5年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命ぜられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。当時、城内には大手、二ノ丸、本丸、搦手の4つの櫓門(間口5〜6間、奥行2間の二層門)があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの1つで大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。昭和29年(1954)に高遠高等学校の正門として、伊那市富県福地の所有者より寄贈を受け移築されたものである。」とあります。現在の高遠城大手門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、薬医門形式、袖壁付。

【 甲州征伐 】-天正10年(1582)、武田家の外戚に当たる木曾義昌が織田家に転じた事から武田家家臣団の崩壊が始まり、この機を逃さず織田軍が甲斐、信濃への本格的な侵攻が行われました。織田軍が信濃に侵入すると、現在の伊那郡阿智村周辺の領主だった下条氏に下克上が起こり、家老下条九兵衛が当家を掌握してから織田家に転じ、その数日後には小笠原信嶺も転じました。これにより飯田城(長野県飯田市)の城主保科正直が逃亡、大島城(長野県松川町)の城主武田信廉も逃亡し、織田軍は武田方の大きな抵抗も無いまま、信濃深く進攻する事に成功しています。当時の高遠城の城主仁科盛信は武田信玄の5男で士気が高く、これに従った小山田昌成や大学助も高遠城に入り守りを固め織田家との一戦に供えました。しかし、織田軍は3〜5万の軍勢だったのに対し、高遠城を守る城兵は3千人程度だったとされ、激闘を繰り広げたものの、次第に劣勢に追い込まれ最後は盛信をはじめ殆どの兵が討死する壮絶な戦いとなりました。この戦いは多くの武田家家臣が裏切りや逃亡した事から、唯一大軍どうしの戦となり、高遠城が落城した事で武田家の命運も事実上決した事になりました。

高遠城:写真

高遠城
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