伊那市高遠町(歴史)概要: 高遠町周辺は古くから諏訪大社の神領だった土地で、鎌倉時代に入ると諏訪大社の惣領の血筋である諏訪貞信が南方の押さえとして高遠領主となり以後、高遠氏を名乗るようになります。時代が下がると高遠氏と諏訪氏との関係も悪化し、戦国時代には武田信玄と密約を結んだ当時の領主高遠頼継は諏訪氏を滅ぼし一時勢力を広大させますが、信玄の策略により自害に追いつめられ宗家は断絶します。高遠町は伊那地方における交通の要地で信玄の支配下に入ると軍事的拠点として重要視され武田勝頼や武田信廉、仁科盛信など血縁者を高遠城主としています。
長篠の戦の後、武田氏は急速に衰退し天正10年(1582)、5万の兵を率いる織田軍に殆どの将兵が離散していくなか高遠城は僅か3千の兵で立ち向かい唯一の激戦地となりますが全ての城兵が討ち死にか自決したと言われています。武田氏が滅ぶと徳川家の支配下に入り、家臣である保科正俊が城主に任命されます。孫の代の保科正光は2万5千石が認められ改めて高遠藩を立藩、徳川秀忠の隠し子幸松(後の保科正之)を養子にしたことで正之は出羽国山形藩(山形県山形市−本城:山形城)20万石、後に会津藩(福島県会津若松市−本城:鶴ヶ城)23万石に加増されます。
高遠藩には鳥居忠春が3万2千石で入りますが忠則の代で改易となり一時廃藩となります。元禄4年(1691)に内藤清枚が3万3千石で高遠に入り立藩し内藤家が8代続き明治維新を迎えています。高遠藩は石高も低く山地に囲まれていることもあり常に財政が逼迫していたとされ何度か藩政改革が行われ特に7代藩主の内藤頼寧ろ8代藩主内藤頼直は名君だったと言われています。
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