鉾持神社(伊那市高遠町)概要: 鉾持神社は長野県伊那市高遠町西高遠に鎮座している神社です。鉾持神社の創建は奈良時代初期の養老5年(721)、当時の領主小治田宅持が町の西部にある権現山に伊豆神社(※1)、箱根神社(※2)、三島大社(※3)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。小治田宅持は平安時代初期の延暦16年(797)に菅野真道らが編纂に携わり完成した「続日本記」によると和銅元年(708)3月13日に従五位下、信濃守に就任した事が記されてる事から、信濃守だった事が判ります。次に信濃守に就任したのは佐伯沙弥麻呂で同じく「続日本記」によると和銅7年(714)10月13日とある事から、鉾持神社の由緒通りだと創建した当時の信濃守は佐伯沙弥麻呂だった事になります。
小治田氏と言えば、奈良時代の中央官僚の一人小治田安萬侶が大変珍しい墓誌付の火葬場が発見された事で知られ、小墾田宮(宮殿)など地名にもある事とから大和(現在の奈良県)出身と推定され、鉾持神社の祭神は何れも伊豆半島近郊に鎮座している為、やや関係が薄いと思われます。一方、佐伯氏は天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊を先導した天押日命を祖としている氏族で、彦火瓊々杵尊は伊豆神社の祭神と同神ですが積極的に祭るにはやや弱いかも知れません。
次に鉾持神社に関わったとされるのが源重之(※4)で、安和2年(969)頃に信濃守に就任した際に、伊那郡笠原に遷座し社殿を造営したとされます。源重之は清和天皇の曾孫で平安時代中期の歌人・貴族・三十六歌仙の一人として知られ「拾遺和歌集」以下に約70首みることが出来ます(境内には源重之の歌碑[ しなのなる伊那にはあらじかいがねの つもれる雪の解けんほどまで ]が建立されています)。当時は政教一致の政策が採られていた為、国司が神社の祭祀を司る事は一般的ですが、あくまでその国の一宮や総社、延喜式式内社など格式の高い神社の事で鉾持神社のような地方の神社に関わったとは一概には信じられない面もあり、当初は素朴な地元神が祭られていたと考えるのが妥当と思われます。
平安時代末期になると地頭として石田刑部が赴任してきますが、治承4年(1180)に鎌倉方に攻められ敗北、代わって養和元年(1181)に鎌倉郡代として日野喜太夫宗滋が赴任、元暦元年(1184)に鉾持神社を北村島崎に遷座し当時は若宮社と称していたそうです。これが事実とすれば「若宮」は「若宮八幡宮」の略称と考えられる為、応神天皇(八幡神)の御子神である仁徳天皇(大鷦鷯尊)が祭られていたと考えられます。文治元年(1185)、日野源吾宗忠(日野喜太夫嫡男)が再び旧地である笠原に遷座し社殿を造営しようと、社地を造成した際、「霊鉾」が出現した事から霊鉾を御神体(鉾持三社大権現)とし、社号を鉾持神社に改めたそうです。
鉾持神社の祭神である伊豆・箱根・三嶋の三社は何れも源頼朝が篤く崇敬した神社である事から、由緒とは異なりますが頼朝に従ったと見られる日野喜太夫宗滋か日野源吾宗忠の代に勧請され現在の形が形成されたのかも知れません。以来、高遠城の守護神として歴代領主である、高遠氏、武田氏、岩崎氏、保科氏、内藤氏、伊沢氏などから崇敬され寄進状や社宝(鎧、明珍の兜、備前長船の銘刀)が残されています。
現在の鉾持神社本殿は安永3年(1774)に再建されたもので拝殿背後の覆屋内部に三社が独立した本殿で並んでいます。棟梁は三河系の大工と推定され江戸時代中期の神社本殿建築の遺構として貴重なことから平成15年(2003)に伊那市指定文化財に指定されています。鉾持神社神門は元禄年間(1688〜1704年)に造営されたもので、切妻、銅板葺、一間一戸、腕木門、木部が弁柄色で仕上げられている事から赤門とも呼ばれています。例祭である「だるま市」(2月11日)や「燈籠祭」(9月23日)では数多くの参拝者が訪れます。
鉾持神社の文化財
・ 本殿(伊豆神社)-安永3年-一間社隅木入春日造,こけら葺-伊那市指定文化財
・ 本殿(箱根神社)-安永3年-一間社隅木入春日造,こけら葺-伊那市指定文化財
・ 本殿(三島神社)-安永3年-一間社流造、こけら葺-伊那市指定文化財
・ 赤門(附:透かし塀)-元禄年間-切妻,銅板葺,腕木門,間口1間-伊那市指定文化財
・ 鉾持神社文書(6通)-永正8年〜慶長9年-伊那市指定文化財
補足
(※1)伊豆神社−祭神:天津彦火瓊瓊杵尊・鎮座地:静岡県熱海市伊豆山上野地
(※2)箱根神社−祭神:天津彦火火出見尊・鎮座地:神奈川県足柄下郡箱根町元箱根
(※3)三島大社−祭神:大山祗命・鎮座地:静岡県三島市大宮町
(※4)源重之−清和源氏、平安時代中期の歌人、三十六歌仙の一人
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