伊那市高遠町: 満光寺

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概要・歴史・観光・見所
満光寺(伊那市高遠町)概要: 親縁山満光寺は長野県伊那市高遠町西高遠に境内を構えています。満光寺の創建は天正元年(1573)浄土宗の高僧だった笈住上人が開山したのが始まりと伝えられています。当時の高遠城の城主だった武田信廉(武田信玄の実弟)と上人とは親交が深く、信廉自ら高遠城にあった黒松を境内に移植したと云われ、あまり見事な枝振りで見るだけで極楽浄土に行ったような気分が味わえる事から「極楽の松」と呼ばれています。元禄4年(1691)、内藤清長が高遠藩に移封になると満光寺が内藤家の菩提寺に定められ高遠藩主の庇護の下伊那郡の録所として郡内の浄土宗の中心的な存在と寺運も隆盛します。元文4年(1739)に再建の際は科の木を使い、長野の善光寺長野県長野市)に模した伽藍配置にしたことから「信濃の科寺」や「伊那善光寺」などと称され伊那一番の伽藍だったと言われています。

明治32年(1899)の火災により本堂はじめ多くの建物や寺宝、記録などが焼失、その後建てられた本堂(入母屋、銅板葺、平入、正面1間唐破風向拝付、白漆喰仕上)や位牌堂(寄棟、桟瓦葺、平入、正面1間向拝付、白漆喰仕上げ)は土蔵造りの珍しい構造になっています。正面の鐘楼門は延享元年(1745)に建てられもので、入母屋、銅板葺、三間一戸、桁行4間、梁間2.5間、八脚楼門、上層にはは高欄が廻り、上下共に花頭窓が設えています。棟梁は三河長篠(現在の愛知県新城市長篠)出身で牛久保流の菅沼貞次が手懸け、松本出身の鋳物師・田中伝右衛門が鋳造した梵鐘が下げられていました(太平洋戦争末期に供出し現存せず)。

満光寺境内に建立されている五輪塔は寛永4年(1627)に建立されたもので保科左源太の墓碑と伝えられています。当時の高遠城の城主保科正光に子供がいなかった為、妹の婿である小日向源太左衛門の子供左源太を養子として迎え入れましたが、訳あって2代将軍徳川秀忠の御落胤とされる保科正之を養子に迎え入れた為、排嫡となり不遇の内にこの地で没しました(戒名:法源院殿伝誉隆相大居士)。満光寺本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代中期頃に制作されたと推定される仏像で、伝承によると「曾我兄弟の仇討ち」で有名な工藤祐経の子供である伊東祐時(犬房丸)が当地に配流された際、工藤家伝来の守本尊を持ち込んだと伝えられています。山号:親縁山。宗派:浄土宗系単立。本尊:阿弥陀如来。

満光寺の文化財
・ 鐘楼門-延享元年-入母屋,銅板葺,三間一戸,八脚楼門-伊那市指定文化財
・ 保科左源太の墓-寛永4年-五輪塔,全長115p,水輪直径35p-伊那市指定文化財
・ 木造阿弥陀如来立像-鎌倉時代中期-伊那市指定文化財

満光寺:写真

満光寺
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