妻籠宿: 脇本陣奥谷(林家住宅)

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概要・歴史・観光・見所
脇本陣奥谷(妻籠宿)概要: 林家(奥谷は屋号)の祖は木曽谷を支配していた木曽氏に従う武家だった家柄で室町時代に木曽家が木曽谷を統一する過程で従ったと思われます。木曽氏は武田家の木曽侵攻に以降は武田家に従い有力家臣の1人となりましたが武田家が衰退すると逸早く織田、徳川軍に寝返りました。天正18年(1590)に主家である木曽義昌が徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されると、林家は当地に残り帰農しました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは木曽路を進軍する徳川秀忠率いる徳川本隊を、木曽家の家臣筋だった山村家が支援し、林家もその動きに同調した為、合戦が終了し山村家が木曽谷の代官職に就任し慶長7年(1602)に正式に中山道(木曽路)が開削され、妻籠宿が成立すると、林家は脇本陣職及び問屋をを命じられました。本陣や脇本陣、問屋などの宿場町の上役は古くから実力者が担うのが一般的で、木曽路の宿場町では、林家同様に旧土豪や木曽家の旧臣など地域の支配層が引き続き宿場の管理運営が任されました。

林家は屋号として「奥谷」を掲げ、妻籠宿の脇本陣だけでなく、妻籠宿の問屋業務を本陣の島崎家と分け合う「半分問屋」でもあり、江戸時代後期の天保12年(1841)からは妻籠宿の庄屋にも就任、醸造業など商人としても大きく発展し江戸時代後期には本陣職だった島崎家をも凌ぐ勢いでした。本陣家が衰退していた事もあり、文久元年(1861)年11月1日、皇女和宮が江戸徳川家に降嫁の際には林家(奥谷)で休息を行い、明治13年(1880)の明治天皇巡幸の際も林家(奥谷)を御小休所として利用しています。又、享保10年(1725)には妻籠宿に境内を構える光徳寺の本堂の再建するなどの文化事業にも尽力し、島崎藤村の初恋の人で馬籠宿大黒屋の娘「おゆふ」の嫁ぎ先が奥谷(林家)だった事から、藤村の作品「初恋」の舞台の1つにもなっています。

脇本陣奥谷(林家住宅)の敷地の略中央に主屋、その背後に文庫蔵、妻籠宿(木曽路)・脇本陣奥谷敷地奥の南西部に土蔵などの付属舎、主屋向って右側の庭園の出入口に侍門、それらを囲うように高塀や源氏塀が設けられています。現在の脇本陣奥谷(林家住宅)主屋は明治10年(1877)に上棟、明治12年(1879)に竣工した建物で、木造2階建(1部3階)、桟瓦葺、切妻、平入、建築面積312.7u、江戸時代には尾張藩(愛知県名古屋市:本城−名古屋城)から一般庶民が使用する事を禁じていた木曽桧などの銘木がふんだんに用いられ、意匠的にも洗練された近代和風建築の要素が取り入れています。。土蔵は明治3年(1870)に造営されたもので、土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺、建築面積40.6u、平入、外壁は白漆喰仕上、腰壁は海鼠壁。文庫蔵は江戸時代末期に造営されたもので、土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺、建築面積13.2u、妻入、外壁は白漆喰仕上、腰壁は海鼠壁。侍門は明治12年(1879)頃に造営されたもので、切妻、桟瓦葺、一間一戸、薬医門形式、左右袖塀附(屋根:桟瓦葺・壁:白漆喰仕上げ・腰壁:下見板張縦押縁押え)。

脇本陣奥谷(林家住宅)は江戸時代末期から明治時代初期の脇本陣建築の遺構で意匠的、技術的に優れ、保存状態も大変良く、「流派的又は地方的特色において顕著なもの」との基準を満たしている事から主屋、土蔵、文庫蔵、侍門、附として銘札、棟札、塀、普請関係書類と共に平成13年(2001)に国指定重要文化財に指定されています。又、林家住宅(奥谷)は妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されるとその構成要素に選定されています。現在は南木曽町博物館の妻籠宿脇本陣林家住宅として林家に伝わる資料や古文書などと共に一般公開されています。

脇本陣奥谷:写真

脇本陣奥谷
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