妻籠宿本陣

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概要・歴史・観光・見所
本陣(妻籠宿)概要: 案内板によると「 妻籠宿の本陣は代々島崎氏が勤めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から"ぬい"が馬籠の正樹("夜明け前"の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最期の当主となりました。その後、本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代後期の間取図を元に忠実に復元されたのが現在の建物です。」とあります。本陣は大名など高貴な人物が利用する施設で式台付きの玄関や上段の間など格式が高い仕様になっていますが表門は木戸門、屋根は板葺石置となっています。江戸時代末期になると事実上参勤交代が行われなくなり、さらに明治時代に入ると街道制度が廃止となった為必然的に本陣職を解任されました。島崎家も衰微し妻籠宿を離れると、敷地内の建物は破却されました。

島崎家は馬籠宿(岐阜県中津川市山口)の本陣職を担った島崎家と同族とされます。島崎家は相模国三浦半島津久井(現在の神奈川県横須賀市)に本拠があった桓武平氏の三浦氏の一族とされ、戦国時代に島崎監物重綱が木曽谷に入り永正10年(1513)頃には木曽谷の領主木曾義在に仕えるようになったとされます。永禄元年(1558)には重綱が馬籠城(砦)の城主だったとされ、天正2年(1574)には主家である木曽義昌から重綱に対して5貫文の領地を加増し忠節を求めています。天正12年(1584)の妻籠城の戦いでは、木曽家の家臣だった山村良勝が守将として配され、それを支援する将の中に重綱が含まれ、馬籠城にいた重綱の子供と思われる重通は敵軍を前にして馬籠城を退去し妻籠城まで退いています。天正18年(1590)に主家である木曽義昌が徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されると、島崎家は当地に残り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは木曽路を進軍する徳川秀忠引き入り徳川本隊を、木曽家の家臣筋だった山村家が支援し、島崎家もその動きに同調した為、合戦が終了し山村家が木曽谷の代官職に就任しています。

慶長7年(1602)に正式に中山道が開削され、妻籠宿が成立すると、島崎家は妻籠宿(重綱の次男)と馬籠宿(重綱の長男)の本陣職を命じられています。脇本陣である林家(奥屋)と妻籠宿の問屋業務を分け合う「半分問屋」で半月交替で人馬会所も務めた為、当初は経済的にもゆとりがあったようですの文久元年(1861)年11月1日に皇女和宮が木曽路を通過した際に妻籠宿では脇本陣の林家(奥屋)が休息所となった事から、江戸時代末期には経済的に林家(奥屋)の方が上回っていたようです(文久の改革以後、参勤交代の形骸化が進み、本陣の意味合いが薄れたと思われます)。最後の当主となった広助は馬籠宿の本陣島崎正樹の2男で、妻籠宿本陣家の養子として迎えられましたが、明治維新後は参勤交代は基本的に行われなくなり、明治3年(1870)には政府の命により本陣職の廃止が決定されました。広助が東京に出た後に本陣の施設は解体され、明治32年(1899)には本陣跡地に御料局妻籠出張所が設けられています。因みに、馬籠宿本陣家の島崎家は明治時代の文豪島崎藤村の実家で、母親の「ぬい」は妻籠宿本陣家の島崎家出身です。

現在の本陣は平成7年(1995)に島崎家に残された江戸時代後期の絵図を元に復元されたもので、木造平屋建、切妻、平入、板葺石置、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、木戸門を潜ると正面に式台付の玄関があり、玄関の正面に玄関の間、向って右側に三ノ間、三ノ間の奥には二ノ間、上段の間と続き、上段の間は床の間と出書院がある格式の高いもので裏手には身分の高い人物が利用する専用の湯殿と雪隠(便所)が設けられていました。

【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

本陣:写真

本陣
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