木曽義昌 |
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人 物 名 | 備 考 |
・木曽義昌 | ・弘治元年(1555)に父親である木曽義康が武田家への降伏の条件として信玄の娘である「真理姫」を義昌の正室として迎えた為、義昌にとっては信玄は義理の父親となり厚く信任されました。妹である「岩姫」は甲府に人質に出された状態で、社寺への禁制の発給が限定的だった事から事実上武田家に従属する立場でしたが、次第に独自で行動出来るようになり、家臣への領地安堵状も独自で発給出来るまでになっています。元亀4年(1573)に信玄が死去すると、武田家が次第に衰微し天正3年(1575)の長篠の戦いで信玄の跡を継いだ武田勝頼が織田・徳川連合軍に敗北し、さらに天正8年(1580)に徳川家康の侵攻により高天神城(静岡県掛川市下土方嶺向)が落城すると、勝頼は守勢となり、新たに新府城(山梨県韮崎市)の築城を計画しました。新府城には家臣に対して多大な負担を虐げられた為、天正10年(1582)に義昌は武田家を離反し織田家に転じました。
勝頼は直ちに粛清する為に木曽谷に軍を派兵しましたが、鳥居峠を突破する事が出来ず敗退を喫し、凋落を決定付けられました。武田家が滅亡すると、新たに安曇郡・筑摩郡の2郡が加増され、深志城(後の松本城)も支配下に入りましたが、同年に本能寺の変により織田信長が自刃すると、後ろ盾を失い、旧武田領は大きく混乱し、北からは上杉家が南下し、南からは徳川家から北上した為、義昌は2郡を放棄して木曽谷に撤退しました。その後、北条家に属したものの、状況を見て徳川家康に転じ、さらに、天正12年(1584)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と徳川家康との争いである小牧長久手の戦いの際には秀吉に転じた為、徳川方の大軍が木曽谷に侵攻しました。 義昌は妻籠城を最終防衛線に定め家臣である山村氏を始め周辺の土豪を終結させ決戦に臨み、何とか妻籠城を死守しています。羽柴秀吉と徳川家康の講和が成立すると義昌は徳川家に従属を余儀なくされ、天正18年(1590)に徳川家康の関東移封に伴い下総阿知戸(千葉県旭市網戸)1万石で移封となり木曽谷を後にしています。 |
・興禅寺 | ・興禅寺は永享6年(1434)に木曽信道が義仲の追善供養の為に創建。境内に義昌の供養塔。天正9年二月(1581)に禁制発布。 |
・長福寺 | ・義昌により長福寺の境内に武田信玄の供養塔が建立された。 |
・定勝寺 | ・定勝寺本堂に義昌の位牌が安置。永禄8年8八月29日(1568)に定勝寺如意庵に寺領を安堵しています。 |
・若宮八幡神社 | ・永禄8年(1565)、黒沢口に鎮座する若宮八幡神社(現在の御嶽神社若宮)、三十六歌仙板絵を奉納しています。 |
・御嶽山 | ・永禄3年(1560)に御嶽山を家臣を引き連れ登拝しています。 |
・御嶽神社里宮 | ・天正8年(1580)に岩戸大権現(御嶽神社里宮)を再興。 |
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