【 概 要 】−知久家は諏訪大社大祝諏訪敦光の子供とされる敦俊が知久沢が与えられ、地名に因み知久氏を称した事が始まりとされ、その養子、信貞を初代としています。ただし、清和源氏満快流の後裔とする説や池田家の後裔説などがあり明確な出身は不明という事になります。信貞は承久3年(1221)の承久の乱で功を挙げ知久平の伴野庄地頭に就任し、正月に行われる御的始(御弓始)では全国から集められた弓の名手の中でも最優秀者として選ばれています。
南北朝時代に入ると南朝方に与し宗良親王(信濃宮)と尹良親王(宗良親王の子、伝承では生母は知久家出身)に従い功を挙げています。その後は信濃国守護職に就任した小笠原家に従いましたが、戦国時代に入り小笠原家の勢力が減少すると、独自に勢力を広め周辺豪族を従え国人領主として地位を確立しています。
天文23年(1554)に武田信玄による伊那郡侵攻により周辺の豪族達は挙って武田家に臣従する中、12代頼元知久頼元は居城である神之峰城に立て籠もり最後まで抵抗を試みます。結果、神之峰城は落城、頼元父子は捉えられた後、甲府に護送され自刃(河口湖東岸の船津浜で処刑されたとも)、知久氏は一時没落します。
その様な中、頼元の次男あるいは孫とされる知久頼氏が脱出、徳川家康の庇護となり、天正10年(1582)織田・徳川連合軍による信濃侵攻に従軍しその功により旧領である知久平領(69カ村)の領主として復権を果しました。しかし、天正13年(1585)、家康の不快をかい切腹、その後は嫡男である則直が跡を継ぎますが当初の6千貫の知行領からは大きく減らされたようです。
則直は慶長5年(1600)の関が原の戦いで東軍として行動し3千石が安堵され柳間詰の交代寄合となり阿島村に阿島陣屋を構えています(阿島陣屋に設けられた茶室である曙月庵が残されています)。安養寺(喬木村)は知久家の菩提寺で境内には阿島領初代となった知久則直の墓碑を始め歴代当主と一族の墓碑が建立されています。
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