【 概 要 】−松平忠倶は寛永11年(1634)、信濃国飯山領4万石で移封となり飯山藩主(飯山城の城主)となっています。幕政では大坂加番などの要職を歴任し、藩政では検地、殖産興業、千曲川の治水工事などの良政を行っています。元禄9年(1696)大坂で死去、享年63年、戒名は「然誉梵道恵深正院」、菩提は忠恩寺(飯山市)に葬られています。
享保2年(1717)、本多助芳は糸魚川藩1万5千石から1万石の加増を受け合計2万5千石となり飯山藩に移封され本多飯山藩初代藩主(飯山城の城主)となりました。以後、本多家が10代にわたり飯山藩主を歴任し明治維新を迎えています。忠恩寺は本多家の領内菩提寺で、飯山で死去した2代藩主本多康明、8代藩主本多助成、9代藩主本多助寵が葬られています。その他の藩主は江戸菩提寺である教善寺(東京都港区六本木)に葬られています。
8代助成は文武に優れた人物とされ起倒流柔術や大坪本流馬術、宝蔵院流槍術などを極め文学や書画の才能にも恵まれ、慶応2年(1866)に第2次長州征伐では父である本多助実の名代として参陣しています。
そのような経緯から戊辰戦争の際には当初、新政府軍には非協力的だった事から謹慎処分を受け、飯山戦争と呼ばれる戦では旧幕府軍で結成された衝鋒隊が領内に侵攻し飯山城も砲弾を受け、飯山城の城門が移築された信叟寺山門には弾痕や刀痕が残されています。9代助寵(助成の実弟:助成が嫡子無く急死した為、死が秘匿され助寵の養子手続きが完了後に公表された。)は一転して新政府軍に積極的に協力し、旧幕府軍である奥羽越列藩同盟に与した長岡藩や会津藩討伐に従軍して功を挙げ賞典禄として5千両を賜っています。
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