【 概 要 】−真田信之は永禄9年(1566)、真田昌幸の長男として躑躅ケ崎(武田氏館の城下町:山梨県甲府市)生まれ、幼少期は武田家の人質として過しました。当初は信幸と称し、武田信玄の「信」の字と昌幸の「幸」の字に因んでいましたが、関が原の戦いで昌幸が西軍に与した為、信之に改称したとされます。天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、生母である山手殿と共に真田家に戻り、昌幸と共に各地で従軍しています。
天正13年(1585)、当時真田家は徳川家に臣従していましたが、所有していた沼田領を徳川家康の画策により搾取されそうになると反旗を翻し第一次上田合戦が開始されました。信之は上田城の支城である砥石城を守り、さらに信濃国分寺付近に布陣した徳川軍の側面を突いて大打撃を与え勝利に大きく貢献しました。天正17年(1589)に徳川家との和睦が成立すると徳川家による真田家の取り込みが行なわれその一環として本多忠勝の娘である小松姫を一旦家康の養女として信之と結婚させた事で信之は徳川家と極めて近い関係となりました。
天正18年(1590)の小田原の役では昌幸と共に従軍し松井田城の大道寺政繁攻めで功を挙げ、戦後は沼田城主(3万石程度)となっています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、昌幸、幸村父子が西軍に与したのに反し信之は東軍に与した為、徳川秀忠に従軍し中山道に西上、上田城攻略戦にも参加し、幸村が守る砥石城を無血で接収する功を挙げています。信之は本戦である関ヶ原の戦いには間に合いませんでしたが、上記の功により昌幸の遺領を引き継ぐ形で9万5千石が与えられ上田藩を立藩しています。
ただし、2度に渡り徳川軍を撃退した上田城は破棄され、居城だった沼田城で藩政は行われました。元和8年(1622)、13万石で松代藩に移封になると松代城(長野市)の築城や城下町の建設などに尽力し明暦元年(1656)に次男の真田信政に家督を譲り大鋒院(後の大鋒寺)隠居しています。しかし万治元年(1658)に信政が死去すると、嫡男幸道が幼少だった事もあり、信之の長男信吉の次男である真田信利(沼田城主)が意義を申し立て御家騒動に発展、幕府の制定を仰ぎ幸道が3代松代藩主に就任し信之がその後見人となりました。
同年、信之死去、享年93歳、戒名「大鋒院殿徹巌一当大居士」。大鋒寺は信之の隠居所だった大鋒院跡に真田家の菩提である長国寺の住職観国和尚により大鋒寺(長野市松代町)として開山し信之の菩提寺としました。境内には大鋒院時代の書院の古材を用いて建てられた信之の霊屋(内部には本尊の阿弥陀三尊像、信之像、信之画像、8代藩主真田幸貫像が安置)や墓碑が建立されています。
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