【 概 要 】−真田信政は慶長2年(1597)、真田家宗家である真田昌幸の嫡男信之の次男として生まれ、慶長5年(1600)の関が原の戦いの際には人質として江戸に送られています。生母は一般的に信之の正室である小松姫とされますが、小松姫は女児しか産んでいないとの説もあり、それに従えば側室の右京という事になります。慶長19年(1614)の大坂の冬の陣では病気で伏せった信之の名代として兄である真田信吉と共に参陣し激戦となった天王寺・岡山の戦いでは大坂方の主力の1つ毛利勝永隊に苦戦の上敗走しています。
元和8年(1622)、信之の松代藩移封に伴い、領内で1万石が与えられ埴科藩を立藩、寛永11年(1634)に沼田領主として3万石を領していた信吉が死去すると幼少である信吉の嫡男熊之助の後見人となりました。寛永16年(1639)に熊之助が死去すると沼田領主となり、5千石分は熊之助の弟である真田信利に分知し、埴科藩1万7千石は弟の信重に与えました。信政は沼田領の開発に尽力し、その結果実石は4万2千石に達し5万両の蓄財を築いたとも云われています。
私生活も波瀾に富み、正室である稲垣重綱の娘とは早々と離縁し、多くの側室を持ち、嫡男と目された長男の信就は別家となり(生母とされる小野お通が出生不詳とされたとも)、3男信武は2男信守と口論となり殺害、信守も罪を感じ自刃、4男信福は早世、結局幼少だった幸道(5男又は6男とも)だけが残りました。明暦2年(1656)、信之の隠居により松代藩2代藩主に就任しましたが翌年の明暦3年(1657)に死去、享年61歳、戒名「円陽院殿威良一中大居士」、遺骸は真田家の菩提寺である長国寺に葬られました。
後継と目された幸道は幼少だった為、沼田領主となった信利が意義を唱える形で御家騒動に発展し、藩内に留まらず幕政の有力者も巻き込みましたが裁定により幸道が3代藩主、信之が後見人となり、信利には改めて沼田領3万石が認められ松代藩(藩庁:松代城)から独立した形で沼田藩が立藩しました。信政の霊廟は万治3年(1660)に長国寺境内に建立されましたが昭和27年(1952)に現在地に移築された林正寺(長野市松代)の本堂となっています。
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