【 概 要 】−仁科盛康の誕生年は不詳、当主だった時代は武田信玄が台頭し天文11年(1542)には諏訪大社の大祝家である諏訪頼重が攻め滅ぼされ信濃侵攻が顕著になっています。筑摩県史によると天文12年(1543)に盛政(盛康の子供)、仁科系図によると天文16年(1547)に盛康が武田信玄に下ったとされます(仁科系図によると盛康が病気を患った為に盛政が代行したと記されています)。一方、神使御頭之日記によると天文17年(1548)に盛康の父親に当たる仁科盛能は主家である小笠原長時に従い村上義清や藤沢頼親などと共に諏訪郡へ侵攻、その恩賞を巡り長時と対立し兵を引き上げたとあります。
さらに、高白斎記によると天正19年(1550)7月15日に盛政と思われる仁科上野介が武田家の家臣駒井高白斎と交渉し武田家に出仕した旨が記されています。天正19年(1550)7月15日は仁科氏の主家にあたる小笠原長時の居城である林城(長野県松本市)が武田方に攻められ落城した日でもあります。天文21年(1552)には武田家に従い、一族である小岩盛親が守る小岩嶽城を攻めています(小岩嶽城は落城、盛親とその子供である盛康は自刃しています)。
仁科盛康は社寺の保護を行い、天文23年(1554)から弘治2年(1556)に掛けて仁科神明宮(長野県大町市)の式年造替を施行、竣工すると遷宮し作始の神事が行われています。弘治2年(1556)には若一王子神社(長野県大町市)の社殿を再建しています(本殿は当時のものとされ国指定重要文化財に指定されています)。死没年は不詳ですが家督は仁科盛政が継いでいます。
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