小島弥太郎・泉家:概要

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概要・歴史・観光・見所
小島弥太郎・泉家(英岩寺)

【 概 要 】【 泉家 】-泉家の祖とされる泉小次郎親衡(信濃源氏)は鎌倉幕府の御家人で、当時、北条氏が影響力を行使して2代将軍源頼家が伊豆修禅寺幽閉された後に暗殺されるという事件が起こり源実朝が3代将軍に擁立されました。危機感を強めた親衡は建保元年(1213)、頼家3男千寿丸(栄実)を大将軍として擁立し北条義時誅殺を画策しました。しかし、計画が露呈し、千寿丸は出家して栄西の弟子となり、親衡は信州飯山に隠遁する事になり、後裔はこのまま土着し国人領主として長く飯山一帯(常盤牧)を支配しました。11代持重の頃に飯山城を築城、13代政重は当時の本拠地水内郡常盤郷尾崎庄の地名に因み尾崎氏を名乗るようになり7人の弟達にそれぞれ領内を護らせ後に泉八家と呼ばれるようになりました。泉家は最盛期に周辺84ケ村を治めまで勢力を広げ、当初は中野の領主高梨家を凌駕していたと思われますが、天文22年(1553)に上杉家に従属すると早くから上杉家に従属していた高梨家が上位に列せられたようです。

武田信玄の信濃侵攻により高梨家は戦線を維持出来ず飯山城まで後退、さらに飯山城は上杉家の信濃侵攻の最前線の拠点として重要視され永禄7年(1564)には上杉謙信の命により城域が改修、拡張されています。天正6年(1578)、謙信が死去すると2人の養子による跡目相続争いである「御館の乱」がおき、その際、泉家の旗頭である尾崎家は上杉景虎に与したとされ、泉弥七郎(尾崎重歳)の跡を継いだ重信が討死、上杉景勝が勝利すると尾崎家は泉家の旗頭から降格され、逆に泉一族で景勝方に与した岩井家が旗頭になったとされます(岩井信能は上杉二十五将の1人、会津三奉行の1人、序列15位)。

ただし、泉弥七郎(尾崎重歳)の娘である蘭子(蘭室妙香大姉)は樋口惣右衛門兼豊に嫁ぎ、実子として直江兼続・大国実頼を生んだとされ、兼続が上杉家の執政として大きな権力を得ると尾崎家はその一門として重用されるようになり重信の孫、重元の子と思われる尾崎重誉は景勝の会津移封の際には宮沢城が与えられています。又、兼続が死去すると菩提寺である徳昌寺が廃寺となり、尾崎家縁の高源院(飯山市)から住職を招き東源寺を創建、位牌寺として兼続、船夫妻を弔いました。英岩寺飯山市)は御館の乱で討死した重信の菩提寺とされています。

【 小島弥太郎 】-小島弥太郎は上杉家の家臣で謙信が幼少の頃から側近として仕え、さらに剛勇ぶりで名が知られ「鬼小島」の異名があったとされます。ただし、正式な記録書とされる軍役帳や名簿にはその名を見つける事が出来ず、逆に軍記物や伝説、伝承には数多く登場している事から実在を疑問視されています。尚、小島家に伝わる「小島氏系図」では天正10年(1582)に死去、享年61歳とあります。英岩寺に伝わる伝承によると武田信玄との川中島の戦いで深手を負い、春日山城に帰途中に追手が近付いた為、足手まといになるのを恐れ自刃し英岩寺境内に葬られたと伝えられています。この話しは永禄4年(1561)に行われた第四次川中島の戦いの事と思われるので死亡年が「小島氏系図」とは異なります。

忠恩寺:写真
小島弥太郎・泉家と縁がある英岩寺 小島弥太郎・泉家と縁がある英岩寺 小島弥太郎・泉家と縁がある英岩寺 小島弥太郎・泉家と縁がある英岩寺
飯山城:写真
小島弥太郎・泉家と縁がある飯山城 小島弥太郎・泉家と縁がある飯山城 小島弥太郎・泉家と縁がある飯山城 小島弥太郎・泉家と縁がある飯山城



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