【 概 要 】−上田藩主松平家は5代松平家宗家、松平長親の5男利長が三河国碧海郡藤井(現在の愛知県安城市藤井町)を与えられ藤井松平氏を称したのが始まりとされます。古くから松平家宗家、後の徳川家から従い十八松平のひとつに数えられました。2代松平信一は幼少の頃から徳川家康に従軍し大功を挙げ慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に土浦藩3万5千石が与えられ、跡を継いだ信吉も大坂の陣などで功を挙げ5万石で篠山藩に移封となっています。
信吉の次男・忠晴は別家(伊賀守系)を興し寛永19年(1642)に駿河田中藩2万5千石で諸侯に列し、寛永21年(1644)に掛川藩、正保5年(1648)に丹波亀山藩3万8千石で移封となりました。亀山藩3代松平忠周は名君として知られ幕政では側用人、京都所司代、老中などの要職を歴任し岩槻藩、出石藩と移封を重ね宝永3年(1706)に上田藩(藩庁:上田城)5万8千石で入封しました。
上田藩2代忠愛の代に弟である忠容に5千石を分与し5万3千石となり、7代にわたり藤井松平家が上田藩主を歴任しました。6代藩主松平忠固(姫路藩主・酒井忠実の次男、5代忠学の養子)は名君とされ幕政では寺社奉行、大坂城代、老中などの要職を歴任し、特に日本の開国に係わり大きな影響力を与えました。藩政では特産物の生糸の生産に力を入れ、開国と同時に主力輸出品に押し上げ大きな発展に繋げています。ただし、忠固は幕政に大きく力が削がれ藩政には疎かだったとされ、財政的には悪化、さらに安政6年(1859)に急死した(暗殺説あり)為、3男で幼少だった忠礼が7代藩主に就任するまでは画策が労されたとされ、その後は藩内の権力争いが激化しています。
戊辰戦争の際は比較的早い段階で新政府軍に与し、北越戦争や会津戦争に従軍しています。願行寺(長野県上田市)は伊賀守系藤井松井家の領内菩提寺で、一般的な藩主は江戸の菩提寺である天徳寺(東京都港区虎ノ門)、初代となる松平忠周だけは金威光明寺(京都府京都市黒谷)に葬られています。願行寺には藩主としては松平忠済、忠固の墓碑と上田に死去した松平家一族の墓が建立されています。
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