|
平林家住宅(大町市)概要: 平林家は江戸時代に千国街道の宿場町である大町宿で塩問屋を営んだ家柄です。 平林家は仁科家の一族と伝えられ、遠祖は、越後長尾家累代の家臣で越後国岩船郡平林郷を本貫とし地名に因み「平林」姓を掲げたとされます。平林経高から9代後裔の平林基盛は功績により重きを成したものの、後年は長尾家から離れ、先祖発祥の地である信濃国安曇郡仁科郷に居を遷したようです。中世、仁科氏の居城だった森城の近くには平林山と呼ばれる地があり、ここが平林家と関係があると云われています。
武田信玄の信濃侵攻により、仁科家が事実上滅び、信玄の五男である仁科盛信が仁科家の名跡を継ぐと、基盛の息子は盛信に従っています。
天正10年(1582)に武田家が滅び、当地が小笠原家領になると、平林盛正は小笠原家に仕え、平林盛永は小笠原秀政から50石が安堵されています。
元和3年(1617)に小笠原忠政が播州赤石藩に移封になると、平林盛直はそれには従わず当地に土着帰農しています。
その後、平林家は松本藩(本城:松本城−長野県松本市)から「大町年寄十人衆」の一人として重く見られ、文政4年(1821)には平林甚左衛門が高根新田の庄屋、天保4年(1833)には大町組大町村の庄屋に抜擢されるなど上役を歴任し、責任ある立場を担いました。
当地は千国街道(糸魚川街道)の宿場町である大町宿で、特に日本海の海産物や塩を信州国(現在の長野県)の内陸部に運ぶ為の中継地、集積地となった為、それらを塩問屋として取り扱った平林家は大きく繁栄しました。
現在の平林家住宅主屋は明治22年(1889)の火災で焼失後の明治23年(1890)に造営されたもので、大工棟梁は開智学校と同じ立石清重が携わっています。
構造は、木造2階建て、塗屋造り、切妻、桟瓦葺き、平入り、桁行7間、建築面積315u、平林家は格式が高く繁栄していた事もあり、敷地間口も広く随所に高い意匠が採用されています。
1階は格子戸、2階は鉄板扉、外壁は正面が黒漆喰、その他は白漆喰仕上げ、1階の下屋は大きく張り出し、腰壁は海鼠壁仕上げとなっています。
又、入り口部分の屋根を切妻にすることで正面性を強調し大屋根には採光・換気・煙出しなどの為に越屋根が設けられ、式台付の玄関や座敷など格式を備えています。
平林家住宅は火災で焼失後に再建された建物である事から防火壁となる「うだつ」を設けるなど大町の町屋建築の中では初めて防火対策を施した建築とも云われています。
平林家住宅文庫蔵は、江戸時代後期に建てられ、安政6年(1859)に棟梁彦右衛門、左官房十郎によって修繕された建物で、土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺、桁行5間、張間3間。
平林家住宅塩蔵は、明治2年(1869)に建てられた建物で、土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺、桁行4間、張間3間。
平林家住宅漬物蔵は、明治2年(1869)に建てられた建物で、土蔵造2階建、切妻、桟瓦葺、桁行4間、張間3間、土蔵3棟の合計建築面積186u。
平林家住宅は千国街道沿いに残る数少ない伝統的建築物の1つで「塩の道」と呼ばれた街道の歴史を伝える貴重な存在で、主屋は「造形の規範となっているもの」、文庫蔵・塩蔵・漬物蔵は「国土の歴史的景観に寄与しているもの」との登録基準を満たしている事から平成29年(2017)に国登録有形文化財に登録されています。
又、「大町の歴史的環境を保存する会」による、町並み保存第1号に指定されています。
現在は塩の道博物館「塩の道ちょうじや」として建物を保存すると同時に内部では運搬道具、旅装、弁当箱、、生活道具、古文書等の街道関係の資料が展示されています。
|