霊松寺

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概要・歴史・観光・見所
霊松寺(大町市)概要: 功徳林大洞山霊松寺は長野県大町市大町に境内を構えている曹洞宗の寺院です。霊松寺の創建は長元9年(1036)、藤原保近が祖父である藤原保昌の菩提を弔う為、開いたのが始まりとされます。当初は天台宗の寺院で保昌院と称していましたが応永11年(1404)、当時の領主仁科盛忠が信濃仁科氏の祖とされる仁科盛遠の供養の為、實峰良秀禅師(総持寺2世峨山韶碩の高弟、峨山五哲)を招いて曹洞宗に改宗開山し、寺号を霊松寺に改め、故に長野県で最も歴史のある曹洞宗の寺院とされ曹洞宗の大本山である總持寺(当時は石川県輪島市に境内を構えた総持寺祖院)からは信濃国初開の道場という称号を得ています。

仁科家には幾つのも系図、伝承がある為に何れが本筋かは不詳で、一説には桓武平氏平繁盛の末とされる盛遠が信濃国安曇郡仁科荘に配され、地名に因み仁科氏を称したのが始まりとも云われています。盛遠は領内に崇敬社である若一王子神社(長野県大町市)を創建するなどの実績がある一方、承久3年(1221)に発生した承久の乱の際、朝廷方として幕府と対立した事から追討軍が派兵され討死しています。その後、伊勢国鈴鹿郡を本拠とした御家人である関氏から養子を迎え名跡を継がせた為、領内が不安定だったと見られ、盛忠は盛遠の菩提を供養する霊松寺を中興する事で旧臣達の支持を纏める必要性があったと思われます。

以来、霊松寺は仁科家累代の菩提寺として庇護され寺運も隆盛し、明治元年(1868)まで曹洞宗の総本山である総持寺の住職を10人輩出しています。戦国時代の永禄4年(1561)、武田信玄の信濃侵攻により仁科本流が滅びると信玄の5男信盛に仁科家の名跡を継がせ、その信盛も天正10年(1582)に織田信長の信濃侵攻により、嫡男織田信忠に攻められ高遠城(伊那市高遠町)で自刃し大名としての仁科家は滅亡しました。霊松寺は庇護者を失い、織田家も庇護しなかった事から一時荒廃しましたが江戸時代に入ると松本藩主となった小笠原貞慶から寺領を寄進され、更に正保4年(1647)に3代将軍徳川家光より10石の朱印状を賜り再興しています。

霊松寺の境内は大規模な伽藍が整備されていましたが弘化4年(1847)の善光寺地震により多くの堂宇が倒壊炎上、その後再建されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により松本藩(藩庁:松本城)では領内の寺院を廃寺にする基本方針を打ち出しましたが、当時の住職安達達淳は京都に上り太政官に直訴するなど頑強に拒否し廃寺を免れています。

現在の霊松寺山門は嘉永5年(1852)に観松院の山門として建てられた建物でしたが、神仏分離令と廃仏毀釈運動の激化に伴い観松院が廃寺となった為、明治11年(1878)に霊松寺に移築されました。山門は三間三戸、入母屋、茅葺の八脚楼門形式の建物で、江戸時代後期の社寺建築の特徴である繊細な彫刻が山門全体に施され、規模や歴史的背景など貴重な事から平成5年(1993)に長野県の県宝に指定されています。又、境内にあるオハツキイチョウは樹高約17m、古くから縁結び、子宝、安産に御利益があるとして信仰の対象となり昭和63年(1988)に大町市指定天然記念物に指定されています。仁科三十三観音霊場:第18番札所(御詠歌:山高み 松吹く風も この寺の 御法の声の 余所にやは聞く)。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

仁科家は長く安曇野地方を領していた事から文化的にも大きく貢献し、霊松寺周辺には仁科家に縁の深い、仁科神明宮(長野県大町市・本殿:国宝)、若一王子神社(長野県大町市)、穂高神社長野県安曇野市)などが点在しています。

【 霊松寺:菩提者(仁科氏) 】−仁科家は古代の氏族である安曇氏の一族が仁科御厨に配され、地名に因み仁科氏を称したのが始まりとされます。源平の合戦の頃は概ね源氏方として行動したようで、一族と見られる仁科の名が度々古文書に散見されています。鎌倉時代には後鳥羽上皇と関係を持った仁科盛遠が幕府から危険視され所領が取り上げられ、これが1つの要因となり「承久の乱」が発生したとも云われています。承久の乱が平定されると仁科家は没落しましたが、鎌倉幕府が滅びると次第に領土を広げたと考えられ、応永7年(1400)の「大塔合戦」では仁科家が盟主の1人として担ぎ上げられ、信濃国守護職小笠原家と戦い見事勝利を収めています。しかし、幕府の協力を得た小笠原氏は再び守護職に復権した為、仁科氏の主流派は排斥され、一族である関盛忠が仁科家の名跡をを継いでいます。戦国時代に入ると国人領主としての地位を確立し、安曇郡・筑摩郡を領するまで勢力を広げましたが、武田家の信濃侵攻により信濃国の国人領主達が次々と討ち滅ぼされると、武田家に従属する事になります。その後の経緯は不詳ですが、仁科家は武田信玄の5男盛信が名跡を継いでいる事から、仁科家宗家の血筋は途絶えています。名跡を継いだ盛信も織田家の信濃侵攻により高遠城(長野県伊那市高遠町)で壮烈な最期を遂げています。

霊松寺(山門・本堂):写真

霊松寺境内に設けられた寺門
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霊松寺本堂前に設けられた重厚な茅葺屋根の山門(楼門) 霊松寺山門(楼門)前に生える大きなイチョウの大木 霊松寺本堂右斜め前方からの画像 霊松寺本堂に隣接されてる大型な庫裏
霊松寺庫裏の外壁 霊松寺庫裏の外壁 霊松寺境内に作庭された庭園 霊松寺ちょっと良く判らない?


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