仁科城(森城)

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概要・歴史・観光・見所
仁科城(森城)概要: 仁科城は案内板によると「 森城は鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間北の守りを果す「後詰めの城」として仁科氏がこの地を支配するための重要な役割を果してきました。木崎湖に突き出た半島状の丘を利用して造られ、北と東は湖水に臨み、西と南は湖水の水を入れた堀に囲まれ、有事の際は湖尻の「せんば」をせき止めて水位を高め西側に水を入れるいわゆる水城の仕組になっていました。本丸跡には仁科盛遠の「もとどり塚」、童話作家、巌谷一波や加藤犀水、柿本環翠の句碑があり、湖水から引き上げられた丸木舟等が保存されています。」とあります。

仁科城の築城年は不詳ですが、城主である仁科氏の祖は「仁科荘」や「仁科御厨」と呼ばれる荘園を管理する為に当地に配されたとも、奥州の俘囚長だった安倍貞任の関係者が当地に流れ着き地名に因み仁科氏を称したとも云われ、何れにしても平安時代後期頃から長く当地を支配しました。鎌倉時代に入ると、現在の大町市の市街地付近に舘之内に舘を設け、仁科城は木崎湖の湖水を利用した要害堅固の城郭で実戦向きだった為、その詰め城として機能したようです。

しかし、承久3年(1221)に発生した承久の乱で、朝廷方に付いた仁科盛遠は越中で北条朝時に敗れ討死、幕府方の勝利で仁科家が没落すると、仁科氏と関係が深いと思われる阿倍貞高(五郎丸)が仁科城の城主となり、その安倍氏も天福元年(1233)に幕府方の木曾義重に侵攻を受け没落しています。その後、仁科家の一族が復権を果たし、再び当地方の領主となった為、仁科城も整備拡張が行われたと思われます。仁科氏は領内にある仁科神明宮若一王子神社穂高神社霊松寺などの社寺に保護を加え中世から戦国時代末期にかけて大きな足跡を残しています。

しかし、戦国時代に復興した仁科家は盛政が武田信玄に忙殺された事で途絶え、名跡を継ぐ形で信玄の5男晴清(盛信)が仁科姓を名乗ります(甲陽軍鑑によると永禄4年:1561年に発生した川中島の戦いで森城(仁科城)の城兵が仁科盛政の許可なく上杉謙信に味方した事で、武田家の家臣山県昌景に攻められ落城、盛政は部下の管理不行き届きの罪で自害して果てたと記されています)。仁科城は千国街道が通過する交通の要衝だった為、武田家の越後進出の軍事的拠点として大改修されますが天正10年(1582)晴清が高遠城で織田信忠軍によって討死するとその後の領主小笠原氏によって奪われたそうです。現在も仁科城にも土塁や堀、郭の形状などが残り、主郭には仁科神社、一段低い郭には安倍神社が鎮座しています。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板

仁科城:土塁・空堀・写真

仁科城(森城)
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