仁科神明宮(大町市)概要: 仁科神明宮は長野県大町市社宮本に鎮座している神社です。仁科神明宮の創建には諸説あり白雉6年(654)仏崎の別当高根伊勢守平盛国が伊勢神宮(三重県伊勢市)の外宮を勧請したのが始まりと伝えられています。しかし、仁科神明宮は伊勢神宮の御領である「仁科御厨」の領内鎮護の為勧請されたと考えられるので御厨が成立した永承3年(1048)前後に創建され、信濃国の伊勢神宮「御厨」の中では一番古い歴史を持っていた事などから仁科神明宮の格式も高かったと推定されています。
鎌倉時代に領主となった仁科氏は平維茂の子孫(仁科氏は奥州を支配した安倍氏の子孫とも言われています。)とされた事から仁科神明宮を深く崇敬し、当時の惣領と思われる仁科盛遠は社領10石を寄進し名刀鵜丸(平家古伝)の奉納しています。平姓仁科家は南北朝時代に没落しましたが、仁科家の名跡を継いだ仁科盛忠の子供である仁科盛国が永和2年(1376)に20年毎に行われる式年造替と遷宮を行っており、その後裔である仁科明盛は明応5年(1496)、仁科盛国は永正13年(1516)、仁科盛能は天文5年(1536)、仁科盛康は弘治2年(1556)、仁科盛信は天正4年(1576)に式年造替を行うなど神事などに深く関わりました。
領内に鎮座する仁科神明宮、若一王子神社、穂高神社は特に仁科三大社と呼ばれ信仰の対象となりました。戦国時代の天正10年(1582)に仁科氏が滅ぶと、その後領主となった小笠原貞慶が社領15石を寄進、さらに江戸時代では歴代松本藩主の祈願所として庇護され慶長19年(1614)には小笠原秀政が禁制を発布し社領15石を寄進し、元和2年(1615)には小笠原忠政が宝殿の造営を行い、その後の藩主は社領23石を安堵するなど厚く庇護しました。しかし、仁科神明宮の式年造替は寛永13年(1637)以降は行われず改修、修繕程度となっています。仁科神明宮は仁科66郷の総社、信濃国7神明宮として広く信仰を集め、松本藩領内では最大の神域を持ち、明治5年(1872)に郷社、明治26年(1893)に県社に列しています。
現在の仁科神明宮本殿(三間社、神明造り、檜皮葺)、中門(四脚門、切妻、檜皮葺)はその当時の建物で現存する最古の神明造建築として昭和28年(1953)に国宝に指定されています(神明造りの社殿としては全国唯一の国宝)。社宝である御正体懸仏5面(附11面)と応安年間(1368〜1375年)以降の棟札27枚(20年毎の式年造替の棟札)が国指定重要文化財に指定されている他、例祭で奉納される神楽(剣の舞、岩戸神楽、五行の舞、水継、幣の舞、龍舞神楽、道祖神の七座)と古式作始め(鍬初め・苗代づくり・種播き・鳥追い)の神事が長野県指定無形民俗文化財に指定されています。仁科三十三観音霊場:第24番札所(御詠歌:神垣も いかで隔ん 永き世の 暗路を照らす 法の月影)。祭神:天照大神。
仁科神明宮の文化財
・ 本殿(釣屋付属)−寛永13年(20年毎式年造替)−国宝
・ 中門(釣屋付属)−寛永13年(20年毎式年造替)−国宝
・ 木造棟札(27枚)−永和2年〜安政3年−国指定重要文化財
・ 御正体5面(附:御正体11面)−国指定重要文化財
・ 仁科神明宮作始め神事−永禄9年以前から−長野県指定無形民俗文化財
・ 仁科神明宮の社叢−推定樹齢300年有−長野県指定天然記念物
・ 仁科神明宮の太々神楽−例祭奉納−長野県指定無形民俗文化財
・ 銅製日岐盛貞奉納鏡−大町市指定有形文化財
・ 木造棟札−大町市指定有形文化財
・ 木造小笠原秀政禁制札−大町市指定有形文化財
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