飯田城

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概要・歴史・観光・見所
飯田城(長姫城)概要: 飯田城の築城年は不詳ですが13世紀初期飯田城に当地域の地頭職だった坂西長由が築いたのが始まりと推定されています。戦国時代に入り武田領に入ると、徳川領との国境に近い事もあり軍事的に重要視され武田家家臣である秋山信友によって大改修され防衛拠点となりました。武田家が滅ぶと織田家の家臣である毛利秀頼が持城となりましたが、信長が本能寺の変で倒れると領地である伊那から一時撤退し秀吉に取り入る事で天正18年(1590)に飯田城に復権します。文禄2年(1593)、秀頼が死去すると娘婿である京極高知が引き継ぎ、この頃に飯田城は近世城郭として整備されます。高知は関ヶ原の戦いで東軍に組し岐阜城(岐阜県岐阜市)攻略戦で功を上げたことで丹後12万3千石に加増移封となり、代わって小笠原秀政が5万石で飯田城に入封します。小笠原家は元々信濃の国人領主でしたが武田家の侵攻により没落し秀政が改めて復権しました。慶長18年(1613)、小笠原忠脩が松本城に8万石で加増移封になると大洲城(愛媛県大洲市)から脇坂安元が5万5千石で飯山藩に入封。寛文12年(1672)に脇坂安政が龍野城(兵庫県たつの市)に移封になると堀親昌が2万石で入封し明治維新まで堀家が12代が藩主を歴任し明治維新を迎えています。

明治4年(1871)に飯田城が廃城となると多くの建物は破却、払い下げとなりなりますが、桜丸御門(赤門:宝暦4年:1754年建築)が城内に移築されている他、二の丸御門(八間門:櫓門・文禄年間:1593〜1596年建築)が市内松尾久井の民家に、桜丸の門が経蔵寺、桜丸の脇門が雲彩寺にそれぞれ移築現存しています。又、本丸には堀秀政、親良、親昌(初代飯田藩主)、の三神を祭神とする長姫神社が建立され二の丸には水路を復元しています。

飯田城は河岸段丘の先端部分に築かれた平山城で先端部の頂上部には詰め城と思われる山伏丸があり、そこから、本丸、二ノ丸、桜丸、出丸、三ノ丸が縄張りされ本丸は藩主の居館で3つの平櫓が設置され、二ノ丸に藩庁が置かれていました。三方が松川と谷川に囲われ天然の外堀に見立て、前面のみ人工の水掘、空堀で各郭を分断し防衛ラインとしています。さらに、城下町全体を惣構えとし、惣堀と石垣、土塁により外部と遮断されています。現在は市街地となっていますが柏心寺(飯田市箕瀬)周辺には僅かに惣構えの遺構が残っています。

【 飯田城桜丸御門(赤門):概要 】 飯田城桜丸御門は堀親長が藩主だった江戸時代中期の宝暦3年(1753)に着工し宝暦4年(1754)4月上棟した建物で、桜丸に位置していた事から桜丸御門と呼ばれました。近世飯田城は天正18年(1590)に当地に配された毛利秀頼と跡を継いだ娘婿である京極高知によって拡張整備され、大きく本丸、山伏丸、二の丸、桜丸、出丸、三の丸で縄張りされました。桜丸は元和3年(1617)に飯田藩に入封した脇坂安元が藩主時代に養子である安政の御殿として整備され、特に多くの桜が植樹した事から桜丸と呼ばれました。安元には実弟で嗣子(養子)となる安経が居ましたが、安経は寛永9年(1632)に備中松山藩主・池田氏の家督争いに巻き込まれ池田長頼と口論の末殺害されました。その為、安元は旗本堀田正吉の次男である安利を養子と迎えたものの、寛永13年(1636)に19歳で早世した事で、堀田正盛の次男である安政を養子として迎えました。明治4年(1871)の廃藩置県により飯田藩が廃藩、それに伴い飯田城が廃城になると多くの施設が破却、払い下げになる中で桜丸御門は残され、旧城内に設けられた飯田県、筑摩県飯田支所、下伊那郡役所、下伊那地方事務所の正門として利用され続けられました。城内に残る唯一の飯田城の遺構として貴重な存在で、朱塗りや門番所が付属してる珍しい形式としても知られています。

桜丸御門は入母屋、桟瓦葺き(鬼瓦には飯田藩主堀家の家紋である「向梅」が刻まれています)、三間一戸、桁行4間(7.3m)、梁間3間(4.28m)、木部朱塗り(別称である赤門の由来)、潜戸付、門番所付(木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ)。

【 場 所 】−桜丸御門:長野県飯田市追手町

【 備 考 】−昭和60年(1985)11月20日:飯田市有形文化財

【 飯田城二の丸御門:概要 】−二の丸御門は名称の通り、飯田城の二の丸入り口に位置した城門で、元々は桝形虎口に配され左右が長屋では無く石垣だった考えられています。近世飯田城は天正18年(1590)に当地に配された毛利秀頼と跡を継いだ娘婿である京極高知によって拡張整備され、大きく本丸、山伏丸、二の丸、桜丸、出丸、三の丸で縄張りされ、二の丸には重臣の屋敷や蔵、櫓などが配されていました。明治4年(1871)の廃藩置県により飯田藩が廃藩、それに伴い飯田城が廃城になると多くの施設が破却、払い下げとなり、二の丸御門は木下家住宅の表門として現在地に移築されました。

二の丸御門は上層部が江戸時代初期、下層部が文禄年間(1592〜1596年)に建てられたもので、木造2階建て、櫓門形式、切妻、桟瓦葺き、三間一戸、下層部桁行7.58m、梁間3.31m、左右に桁行4間、梁間3間の長屋が付属してた事から八間門との別称があります。上層部は桁行5間(8.54m)、梁間3間(4.59m)、格子戸付、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、下層部より前に張り出しその床の部分が石落としとなっています。

【 場 所 】−二の丸御門:長野県飯田市松尾久井

【 備 考 】−平成10年(1998)11月27日:飯田市有形文化財・昭和24年(1949)5月28日:国認定重要美術品

飯田城(城門・空堀):写真

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