芦田宿本陣(土屋家住宅)概要: 土屋家は代々芦田宿本陣を勤める家柄で中山道の開削の際は大きな尽力を尽くしたそうです。伝承によると初代土屋右京左衛門重郷は武田家の譜代家老衆である土屋昌続の遺児や一族ととも云われ、元々の金丸姓は右京左衛門家の分家筋が「金丸土屋旅館」として芦田宿の旅籠を生業としています。昌続は天正3年(1575)の長篠の戦いで討死している為、その遺児は、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと帰農し茂田井村に土着したのかも知れません。慶長2年(1597)、右京左衛門重郷は芦田の浪人岩間忠助と共に「芦田宿立駅についての願文」を蓼科神社(立科町大字芦田字高井)に奉納、この事から中山道の開削計画は豊臣時代末期頃からあった事になり、徳川政権はそれを踏襲したとも言えます。慶長7年(1602)に正式に中山道が開削され宿場町が指定されると、土屋家は芦田宿の本陣及び問屋、岩間家は名主に就任しその後も宿場の役人を歴任しています。
往時の芦田宿本陣は客殿をはじめ、主屋、問屋場、荷蔵、酒蔵、長屋など多くの建物が軒を連ねていました。現在の建物(旧客殿:木造平屋建、切妻、桟瓦葺、妻入)は寛政12年(1800)に改築されたもので梁間11間(約20m)、桁行5間(約9m)と規模が大きく玄関屋根は唐破風で懸魚や蟇股など格式の高く、内部には大名や公家などが泊まった上段の間や広間、小姓部屋、湯殿、雪隠とほぼ原形が残されています。文久元年(1861)には皇女和宮が降嫁で中山道を下向する際、芦田宿を利用し本陣で昼食を取っています。芦田宿本陣は江戸時代後期に建てられた大型で当時の姿を留めている本陣建築の遺構として貴重な事から昭和63年(1988)に長野県の県宝に指定されています。
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