小田井宿(御代田町)概要: 小田井宿は天正16年(1588)から町割が開始された宿場町で、 その際、鎮守である諏訪神社(長倉神社)や宝珠院が当地に遷されています。小田井宿の集落的な発生は判りませんが、戦国時代の大永年間(1521〜1528年)に小田井吉六郎副親が小田井城を築城している事から、当初は小田井城の城下町として町割りされたと思われます。天文13年(1544)、武田信玄の信濃侵攻により当時の城主小田井(尾臺)又六郎信親と小田井二郎左衛門信治は討死し小田井氏は滅亡したとされます。その後の経緯は不詳ですが、天正10年(1582)の天正壬午の乱で軍事的拠点として利用されたものの、徳川家康の支援を受けた依田信蕃の侵攻により小田井城は落城、後に廃城になり、城下町が宿場町として改めた町割りされたと思われます。又、小田井宿の有力者の中には数軒の尾臺氏が名を連ねた事から小田井氏は領主としては没落したものの、一族は当地の有力者として存続したと思われます。
慶長7年(1602)に中山道が整備されると、正式に宿場町(中山道69次中21番目)に選定され本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設置されました。東と西端に枡形を設け上の駅・中の駅・下の駅の3町に分けられ7町23間の長さがあり中の駅には本陣、脇本陣、問屋など上・下の駅には茶屋などの小商売が配置されました。小田井宿は交通の要衝である追分宿と、岩田村宿(中山道と甲州佐久街道の分岐点、岩田村藩の藩都、岩田村城の城下町)の中間に位置し、追分宿と岩田村宿が大きく発展したのに対し比較的に小規模な宿場町で宿場を利用する人も少なく半農半宿が強いられたようです。本陣は代々安川家が歴任し江戸時代末期の皇女和宮が徳川将軍家に降嫁の際に昼食所として利用され、給士として和宮の御世話をした幼少時の安川時太郎には人形(皇女和宮拝領人形:御代田町指定有形文化財)を拝領しています。
小田井宿は天保14年(1843)に編纂された「中山道宿村大概帳」によると宿場には本陣1軒(安川家)、脇本陣1軒(すわまや・屋又左衛門家)、問屋2軒(上の問屋:安川家・下の問屋:尾台家)、旅籠5軒、家屋107軒、宿場の利用者が少なかった事から無許可で飯盛女を置いている旅籠が続出し、幕府によって多くの主人が罰則を受けたことが記録に残っています。
又、中山道と北国街道(善光寺街道)の追分にある追分宿は多くの遊女が存在し女性や子供が宿泊するのははばかられる場面が多く、一方、小田井宿は歓楽的な要素が少なかった事から、大名や公家達の奥方や姫君、側女達の休息や宿泊に割り当てられ「姫の宿」とも呼ばれています。
小田井宿は明治22年(1889)に宿場の中心から離れた場所に鉄道駅舎が設置されたものの主要幹線から外れた為、大きな近代化が行われず現在でも街道沿いには本陣(安川家:宝暦6年1756年建築の座敷棟・土蔵・表門)・上問屋(安川家:享保から文化年間建築の主屋)・下問屋(尾台家:江戸時代中期の明和9年:1772年の大火以降に再建された主屋・長屋門)などの宿場上層部の建物や、大黒屋(小林伝兵衛家)や尾台屋(尾台喜右衛門家)、和泉屋(尾台治左衛門家)などの旅籠建築、水路が点在し当時の町並みの雰囲気を残している事から名称「中山道小田井宿跡」として御代田町指定史跡に指定されています。史跡も多く産土神で鎮守でもある長倉神社・諏訪神社合殿の社叢には推定樹齢200〜300年の古木が多く御代田町指定天然記念物に、藁で製作した神馬を町内で練り歩く「小田井の道祖神まつり」は御代田町指定無形民俗文化財にそれぞれ指定されています。永正年間(1504〜1520)に法印幸尊が開山したと伝わる宝珠院の境内にはシダレザクラとアカマツの古木がある両木共に御代田町指定天然記念物に指定されています。
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