馬籠宿(木曽路)・島崎藤村生家

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馬籠宿(木曽路)・島崎藤村生家

【 概 要 】−島崎家(岐阜県中津川市)は妻籠宿(長野県木曽郡南木曽町)馬籠宿(木曽路)・島崎藤村生家の本陣職を担った島崎家と同族とされます。島崎家は現在の神奈川県横須賀市を領していた三浦家(桓武平氏)の一族で、島崎監物重綱の代に木曽地方に居を移し、木曽義仲の後裔を自称する木曾義在に従属するようになります。永禄元年(1558)には重綱が馬籠城(砦)の城将だったとされ、天正2年(1574)には木曽義昌が発給した書状によると領地の加増の約束と木曽家の忠誠を重綱に対して求めています。天正12年(1584)の豊臣秀吉と徳川家康との対立である小牧長久手の戦いでは、義昌は豊臣方に与した為、徳川軍が木曽谷に侵攻し、木曽家は妻籠城で迎え撃ちました。妻籠城には山村良勝が城将として重綱などの地方領主も立て籠もり、支城である馬籠城には重綱の嫡男重通が配されています。重通は徳川の大軍を目の前にして馬籠城を放棄し、妻籠城まで退去、妻籠城では激しい攻防戦が繰り広げられ、見事徳川軍を撃退しています。天正18年(1590)に木曽義昌が下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移封になると、島崎家は木曽谷に留まり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には山村家が徳川家に与し、島崎家も従った為、合戦終了後、中山道が開削されると長男が馬籠宿、次男が妻籠宿の本陣職を命じられています。

特に、木曽代官の山村家やその一族、家臣、又、山村家の主家にあたる尾張徳川家やその一族、家臣が定宿として利用していたようです。島崎家は本陣職以外にも馬籠宿の問屋や庄屋などの要職を歴任し、最盛期の享保年間(1716〜1735年)には村高の約4割の土地を所有し江戸時代後期には苗字帯刀を許されるなど繁栄しましたが、江戸時代末期には参勤交代も限定的になり運搬業の形態も多様化した為、繁栄に限りが見え始め、明治3年(1870)には政府の命により本陣職の廃止が決定されされると、さらなる困窮を招き、最後の本陣職を担った島崎正樹は明治25年(1892)に馬籠宿を離れ東京に移り住みました。明治28年(1895)、馬籠宿大火により本陣の建物も類焼し唯一焼け残った本陣隠居所以外は焼失しました。又、明治時代から昭和初期にかけての日本を代表する文豪島崎藤村は正樹と妻籠宿本陣職島崎家出身の「ぬい」との4男で、藤村が幼少期、少年期は馬籠で過しています。島崎藤村宅(馬籠宿本陣)跡は歴史性や島崎藤村の生家跡地として貴重な事から平成17年(2005)に岐阜県指定史跡に指定されています。現在は藤村記念郷として敷地内には藤村記念館や藤村記念堂、本陣隠居所、記念文庫などが建てられています。

馬籠宿・名所・見所大黒屋(大脇家)永昌寺島崎藤村生家清水屋(原家)脇本陣(蜂谷家)
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