【 概 要 】−三留野宿は慶長2年(1602)に幕府により正式に中山道(木曽路)が開削されると須原宿は69次中41番目の宿場町として成立した町である一方で、地名である「三留野宿」は木曽義仲の後裔とされる木曽氏の御殿があった事が由来になったとも云われています。天文2年(1533)に17代木曽義在が領内の馬籠宿(岐阜県中津川市)から洗馬宿までの街道(木曽路の前身)を整備している事から三留野宿も関係が深かったと思われます。詳細は不詳ですが三留野宿本陣の鮎沢弥左衛門家の関係者と思われる鮎沢弥三郎は天正7年(1579)に18代木曽義昌から知行安堵が行われ、天正12年(1584)に三留野宿と妻籠宿の間に築かれた妻籠城で徳川の大軍が侵攻してきた際には鮎沢氏も城将の1人と配されている事から、鮎沢家は中世以来の土豪で、木曽氏が木曽谷に離れた際に帰農し三留野宿の支配層になったと思われます。問屋の勝野家も関係者と思われる勝野平左衛門や勝野惣兵衛が「岐蘇古今沿革志」に記載されている「義昌従士名」に名を連ね、鮎沢家と共に妻籠城に詰めていた事が記録されています。古くから交通の要衝だったようで、天正18年(1590)の小田原の陣の際には上杉軍の援軍として派兵された豊臣軍が三留野宿に陣を張った事が千村文書(千村十左衛門尉宛前田利家の書状)に記載されています。野尻宿と三留野宿との間には木曽川の浸食によって削り取られた断崖が迫り、羅天桟道や与川渡といった木曽路を代表する難所が続いた為、大雨が降る毎に川止めになる為、享保年間(1716〜1736年)与川道と呼ばれる迂回路が整備されました。江戸時代後期の天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると野尻宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒、問屋2軒、家屋108軒、人口986人、宿場の規模は6町3尺、上町、中町(本町)、横町、荒田(新田)で構成された事が判ります。明治14年(1881)の火災で多くの古民家が焼失し明治時代中期以降に近代交通網が整備されると衰微しましたが、大規模な近代化が図られなかった為、静かな町並みが続いています。
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