【 概 要 】−藪原宿(長野県木曽郡木祖村)は飛騨高山(岐阜県高山市)を結ぶ飛騨街道奈川道が分岐する交通の要衝で、戦国時代に木曽谷の領主だった木曽氏は藪原宿の背後に控える鳥居峠を防衛線と捉えていた事から軍事的な拠点の1つとして重要視されました。天文2年(1533)には当主木曽義在(木曽義仲から17代後裔)によって木曽路の整備が行われ藪原宿が宿場町として成立したとされ、永禄11年(1568)には武田信玄が木曽路の宿場町に「伝馬七疋、異儀なくこれ を出すべし、海蔵寺へ進められるものなり」との覚書が発給され、馬一疋の口付銭として奈良井宿より藪原宿12文、藪原宿より福島宿18文と定められている事から戦国時代には木曽路の伝馬制度が確立していた事が窺えます(福島宿には関所が設けら、他所よりも口付銭が高っかたと推定されています)。藪原の地には木曽家村の3男家景が古畑氏を称し、その後裔が木曽氏の有力家臣として配されていました。
特に古畑重家は古畑氏館を居城として南下する飛騨勢を良く食い止めましたが、天正12年(1584)に松本城(深志城:長野県松本市)の城主小笠原貞慶が木曽谷に侵攻し、捕虜になった後に小笠原家の家臣となりこの地を去っています。藪原の地には一族と思われる古畑十右衛門が引き続き存在し、天正18年(1590)に主家である木曽義昌が徳川家康の関東移封に伴い下総国海上郡阿知戸領(現在の千葉県旭市)に移されると、古畑家はそれに従わず帰農し土着し、慶長7年(1602)に幕府により正式に中山道(木曽路)が開削されると藪原宿が中山道69次中35番目(65里35町16間:約259.1キロ)の宿場町として指定され、古畑十右衛門家が本陣、古畑十左衛門家が脇本陣を命じられたとされます。
上記のように藪原宿は交通の要衝で、難所として知られる鳥居峠を控えていた事から、参勤交代で中山道(木曽路)を利用する諸大名は藪原宿で宿泊する例が多く、本陣は木曽路11宿の中でも最大級の規模を誇ったとされます(間口14間半、奥行21間半、表門、式台付玄関、広い庭園、南側に木戸門)。宿場の規模も次第に拡張され最終的には5町25間と木曽路有数と発展しています。又、宿場の娘である「お六」が頭痛の平癒祈願の為に御嶽大権現を参拝し、御告げにより考案された「お六櫛」が宿場の名産となり、往時は宿場の6割の住民が「お六櫛」の生産に携わったとされ、現在でも長野県伝統工芸品に指定され御土産品として求める人が多いそうです。江戸時代後期の天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると藪原宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒、問屋2軒、家屋266軒、人口1493人だった事が判ります。藪原宿は大火が多かった事から防火高塀が設けられたのが特徴の1つで、現在土塀は撤去されたものの、土台となり土塁や石垣の一部が残され当時の名残が見られます。明治時代以降に国道や鉄道が開削されると衰微し、現在は古い町屋建築が連続している訳ではありませんが、宿場町らしい静かな町並みが続いています。
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