中山道・木曽路・宮ノ越宿

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中山道・木曽路・宮ノ越宿
【 概 要 】宮ノ越宿(長野県木曽郡木曽町日義)の地名の由来は鎮守である南宮神社が当初、現在地よりさらに南西1km先の「古宮平」に鎮座し、そこから見ると中腹(腰)に位置する事から宮ノ越と呼ばれるようになったとも云われています。平安時代後期には当地の豪族である中原兼遠が支配し、幼少だった木曾義仲を密かに預かり乳母父として青年期まで育て挙げた事から宮ノ越宿周辺には義仲の居館である義仲館や、家追討の旗揚げした「旗挙八幡宮」、母親の追善供養の為に創建し自らの菩提寺となった徳音寺、愛妾である巴御前の伝説が残る巴ヶ淵、中原兼遠の菩提寺である林昌寺、兼遠が義仲の学問の神として創建した手習天神など多数の史跡が点在しています。又、地名である日義も義仲が朝将軍と呼ばれた事に因んだ「日」よ仲の名前に因んだ「義」を合わせたものとされます。慶長7年(1602)に中山道(木曽路)が開削されると69次中36番目(江戸から67里8町9.4間:約264キロ)の宿場町として整備され宮ノ越宿が成立しています。特に元禄9年(1696)に中山道(木曽路)と伊那地方を結ぶ権兵衛街道が開削されると、分岐点が一番近い宿場町として多くの旅人や商人達が利用しました。宮ノ越宿は上町、本町、中町、下町の4町で構成され、街道の中央には木曽川から引き込んだ水路(現在は道路の端に流されています)があり中心付近には本陣兼問屋や脇本陣兼問屋が置かれていました。江戸時代後期の天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると宮ノ越宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒、問屋2軒、家屋137軒、人口585人だった事が判ります。明治時代に入り近代的な交通網が整備されると衰微し、さらに、明治16年(1883)に宿場内で大火があり多くの建物が焼失した為、宮ノ越宿では本陣の書院など江戸時代からの建物は限定的となっています。ただし、宮ノ越宿は木曽大工の発祥地なだけに、明治時代以降の町屋建築にも細かな細工が施されたものが点在し町並みに彩りを与えています。

宮ノ越宿:見所

徳音寺
□−徳音寺

徳音寺の平安時代後期の仁安3年(1168)に創建された古寺です。木曽義仲の菩提寺とされ、寺号は義仲の戒名「徳音院殿義山宣公大居士」を由来としています。山門は江戸時代中期に建てられた楼門建築で木曽町指定文化財に指定されています。
本陣
□−本陣

本陣の主屋は明治16年(1883)の大火により焼失しましたが、大名が休息や宿泊で利用した客殿部分は無事で、木曽路11宿の中で唯一の本陣建築の遺構として貴重な存在です。この建物は明治13年(1880)の明治天皇も小休止されています。
明治天皇宮ノ越御膳水
□−明治天皇宮ノ越御膳水

この井戸は江戸時代末期の慶応2年(1866)に宮ノ越宿住民の生活水を得る為に掘ったもので、昭和初期に水道水が整備されるまで利用されました。明治13年(1880)に明治天皇が巡幸し本陣で御小休された際、御膳水として献上されました。
田中家住宅
□−田中家住宅

田中家は江戸時代代々旅籠を生業としてきた家柄です。現在の建物は明治16年(1883)の宮ノ越宿で大火災があり、それに類焼後に再建されたもので、木造2階建、切妻、平入、桁行3間4尺、梁間8間、宮ノ越大工の技術が随所に見られます。

木曽路:宿場町

贄川宿
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木曽平沢
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奈良井宿
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藪原宿
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宮ノ越宿
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福島宿
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上松宿
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須原宿
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野尻宿
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三留野宿
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妻籠宿
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大妻籠
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馬籠宿
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