長泉寺(奈良井宿)概要: 案内板によると「 3代将軍家光より宇治採茶使が制度化され、御茶壷道中(寛永10年)が始まった。茶道頭以下「公儀の11茶壷、西の丸2壷」中山道、甲州街道と経て江戸に向かう。元禄2年の記録に依ると5月26日須原、5月27日奈良井宿長泉寺に宿泊とある。毎年の茶壷は必ず奈良井宿長泉寺に宿泊していたと当寺の記録にある。尚、当寺には拝領の茶壷が残されている。 」とあります。
長泉寺は長野県塩尻市奈良井に境内を構えている曹洞宗の寺院で、南北朝時代の貞治5年(1366)、元章希本阿闍梨により創建されたと伝えられています。その後の詳細は不詳ですが、戦国時代の永禄11年(1568)、器外聞應和尚(静岡県静岡市清水区梅ヶ谷:真珠院)により曹洞宗の寺院として改宗開山し、器外聞應和尚を篤く帰依した藤田能登守信吉が中興開基となっています。天正10年(1582)、武田家を裏切った木曾義昌を粛清する為、武田勝頼が鳥居峠に侵攻、両軍による激しい戦いが行われ、奈良井宿も戦場となっています。長泉寺もその兵火により多くの堂宇、記録、寺宝などが焼失し境内も大きな被害を受けましたが、文禄年間(1593〜1596年)、大檀那である藤田信吉により再興が図られ、随時堂宇が再建されています。
藤田信吉は元々は北条家に仕えていましたが、真田昌幸の勧めにより武田家に転じ、天正10年(1582)に武田家が滅ぶと、織田家の家臣で上州国(現在の群馬県)の領主となった滝川一益に従い、同年に本能寺の変で織田信長が自刃すると、後ろ盾を失った一益は自領に引き上げた為、上杉家を頼り越後に落ち延びました。上杉家家臣時代は新発田重家の乱の平定に尽力、天正18年(1590)の小田原の陣でも大功を挙げ、津川城代(新潟県東蒲原郡阿賀町)1万5千石に抜擢されています。慶長5年(1600)、上杉景勝が謀反の疑いを掛けられた際には、徳川家との対立を避ける為に尽力しますが、それが、上杉家を貶める行為と誤解され、結果的に上杉家を追い出される形で出奔し徳川方に転じました。
関ヶ原の戦い後、1万5千石で西方藩(栃木県栃木市西方町)を立藩、その後、東西中立を保った事で久保田城(秋田県秋田市)に移封となった佐竹義宣の居城水戸城(茨城県水戸市)の接収や、大坂の陣にも参陣しますが、慶長20年(1615)に改易、西方藩も廃藩となっています。信吉は大坂の陣で深手の傷を負ったとされ、治療の為諏訪温泉に赴く際、奈良井宿の長泉寺に滞在中、元和2年(1616)に死去、遺骸は長泉寺の境内に葬られ墓碑(五輪塔)が建立されています(隣には正室と思われる女性の墓碑も建立されています)。
3代将軍徳川家光より宇治採茶使が制度化され寛永10年(1633)に御茶壷道中が開始、茶道頭以下「公儀の11茶壷、西の丸2壷」は中山道(木曽路)と甲州街道を利用して江戸城に至る行程で、奈良井宿の長泉寺が定宿として宿泊で利用され、現在もお茶壺が一つ残されています。寛政7年(1759)に境内を一新し奈良井宿の中では最大規模の寺院となりましたが、天保8年(1837)に奈良井宿で大火があり、それに類焼して長泉寺も焼失、現在の本堂は江戸時代末期の慶応2年(1866)に再建されたものです。又、山門は奈良井宿の本陣が解体された際に長泉寺の山門として移築されたもので、切妻、銅板葺、一間一戸、薬医門、こちらは上記の火災を免れた貴重な本陣の遺構となっています。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼佛。
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