奈良井宿: 大宝寺

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概要・歴史・観光・見所
大宝寺(奈良井宿)概要: 大宝寺は長野県塩尻市奈良井に境内を構えている臨済宗妙心寺派の寺院です。大宝寺の創建は天正10年(1582)、当時の領主奈良井義高が大安和尚を招いて自らの菩提寺として開いたのが始まりと伝えられています。奈良井義高は源義仲の後裔とされる木曽義在と小笠原大膳大夫長時の娘との間に生まれたとされる人物で、鳥居峠を控えた軍事的要衝である当地に配され、地名に因み奈良井氏を称したと云われています。ただし、客観的な資料が乏しく出生は不詳、死没についても様々な説があります。1つは木曽氏の一族として、弘治3年(1557)に武田信玄の木曽谷侵攻の際、頑強に抵抗した後に討死、嫡男義尚は母方の実家である小笠原家を頼り松本城(深志城:長野県長野市)に落ち延び、小笠原季政の家臣になったとされます。1つは、当初は木曽氏に従ったものの、後に武田家に転じた為に木曽義昌に殺害されたとされます。1つは天正10年(1582)に木曽義昌と武田勝頼が鳥居峠で合戦が行われた際に木曽方の武将として参陣し大功があったとも云われています。どの説も異なる見解なので、義高がどの様な経歴を持ったのかは判りませんが、目立った子孫が居ない事から戦国期の後半には没落した思われ、天正18年(1590)に死去し、菩提寺である大宝寺に葬られたとも云われています。大宝寺の境内裏山には開基となった義高の墓碑が建立されており、戒名「広伝寺殿ァ翁宗ァ大禅寺定門」が刻まれています。

奈良井氏が没落すると、庇護者を失い衰微したと思われますが江戸時代に入り中山道(木曽路)が開削、奈良井宿が整備されると木曽代官となった山村氏が庇護し明暦年間(1655〜1657年)に玉洲禅師を招いて中興開山し、寺号を「広伝寺」から「広伝山大宝寺」に改め、堂宇の再建も随時行われました。現在の大宝寺本堂は万治元年(1658)に当時の木曽代官山村良豊によって再建されたもので木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、玄関部には入母屋屋根、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、山岡鉄舟揮毫の「大寶寺」の扁額が掲げられています。

大宝寺境内に祀られているマリア地蔵尊が有名で、案内板によると「 この石像は、昭和7年(1932)の夏に、地元の人が藪のなかになかば埋もれているところを掘り出したと伝える。抱かれる児が手にもつ蓮華の先が十字状になっているところから、隠れキリシタンが観音像をよそおってひそかにまつったものではないかと言われている。」とあります。本堂裏にある庭園は享保年間(1716〜1735年)に作庭されたもので心字池を中心に蓬莱石や亀島を配置し背後の山を借景にした遠州流の名園とされます。宗派:臨済宗妙心寺派。木曽霊場・七福神めぐり:寿老人。本尊:釈迦牟尼。

大宝寺:写真

大宝寺
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