奈良井宿(塩尻市)概要: 案内板によると「 奈良井宿は、戦国時代に武田氏の定めた宿駅となっており、集落の成立はさらに古いと考えられる。慶長7年(1602)江戸幕府によって伝馬制度が設けられて中山道六十七宿が定められ、奈良井宿はその宿場の1つとなった。選定地区(※重要建築物群保存地区)は中山道(木曽路)沿いに南北約1km、東西約200mの範囲で南北両端に神社があり、町並みの背後の山裾に五つの寺院が配され、街道にそって南側から上町、中町、下町の三町に分かれ中町に本陣、脇本陣、問屋などが置かれていた。奈良井宿は、中山道最大の難所といわれた鳥居峠をひかえ、峠越えにそなえて宿をとる旅人が多く「奈良井千軒」とよばれるほどの賑わいをみせた。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。建物の大部分は忠二階建で、低い二階の前面を振り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。屋根は石置き屋根であったが、今日はほとんど鉄板葺きである。二階正面に袖壁をもつものもあり、変化のある町並みを構成している。」 とあります。
奈良井宿の都市的な成立時期は判りませんが、奈良井宿の鎮守である鎮神社が文治年間(1182〜1189年)に創建されてる事から少なくとも鎌倉時代初期には人々の営みがあったと推察されます。鎮神社を創建した中原兼遠は木曽義仲を幼少期から密かに匿った人物とされ、当時の奈良井宿は中原氏の勢力圏内だったようです。戦国時代の天文元年(1532)に当時の領主である木曽義在が奈良井宿に専念寺を創建し、翌年の天文2年(1533)に奈良井宿を宿駅に定めています。木曽義在は木曽谷一帯まで版図を広げた人物で、領内整備の一環として木曽谷を縦断する街道と宿駅の整備を行い、後に中山道の木曽路の祖形となる妻籠宿から洗馬宿までの宿駅を定め領内の流通を確立、その際に奈良井宿も宿駅として定められられています。
義在の跡を継いだ木曾義康は武田信玄の木曽谷侵攻により武田家の軍門に下り、鳥居峠を控える軍事的要衝である奈良井宿には一族と思われる奈良井義高が配されています。天正年間に奈良井城が築かれると、城下町として再整備され、鎮神社の現在地遷座や八幡神社の創建などが行われています。武田信玄の支配下に入ると信玄は街道筋を軍用道として重要視し、武田家に従った木曽氏に命じて下諏訪宿、塩尻宿、洗馬宿、贄川宿、奈良井宿、藪原宿、福島宿の7宿を宿場町として整備させ伝馬制を敷いて流通の便を図っています。
武田勝頼の時代になると、一族衆として重用されていた木曾義昌が武田家を見限った為、武田家の大軍が木曽谷に侵攻し、鳥居峠で激しい戦いが繰り広げられました。義昌が織田信長の後ろ盾を得て鳥居峠を死守しましたが、麓に位置する奈良井宿は大きな被害を受け、鎮神社も兵火に焼失しています。天正10年(1582)に武田家が滅びると支配者が流動的となり、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで木曽義昌は豊臣秀吉に転じたものの、その後は、徳川家康に従い、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置の一環で徳川家康が関東に移封になると徳川家に従った木曽家も従い木曽谷を離れ、代わって秀吉の家臣石川光吉の支配下に入りました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは石川光吉は西軍に与し、犬山城(愛知県犬山市)に籠城後に本戦である関ケ原に布陣した為、木曽谷は空白域となり、木曽家の家臣筋で徳川家に従った山村良勝が木曽谷の有力者達を懐柔した為、徳川家の勢力下に入りました。徳川本隊3万を率いた徳川秀忠は第二次上田合戦(上田城攻防戦)で苦戦を強いられましたが、上田城(長野県上田市)には僅かな兵を残して関ケ原に向かう為に木曽路を西上し奈良井宿の法然寺を本陣として利用しています。関ケ原の戦いで東軍が勝利すると、木曽谷での功績が高かった山村家が木曽谷の代官に任命され、代官所は福島宿に設けられ、各宿場の本陣家は山村家の支配下に入ります。慶長7年(1602)、事実上政権を豊臣家から奪取した徳川家が国内整備の一環として街道の開削を行い、中山道も五街道の1つとして最重要視され奈良井宿もその宿駅として本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設置されました。3代将軍徳川家光の代には宇治採茶使が制度化され、御茶壷道中の定宿として長泉寺が指定され、専念寺では本願寺の門跡や関係者等が利用する御殿(座敷)が残されています(中山道の木曽谷に位置する宿場町は名勝旧跡が多く木曽路とも云われています)。
奈良井宿は中山道の難所として知られた鳥居峠を控えていた事から多くの旅人や商人が利用し、さらに木曽檜などの工芸品を製作する職人が集められた為、南北約1キロ、東西約200mという宿場町としては有数の規模の規模を持ち、木曽路最大の宿場町として発展し「奈良井千軒」とも呼ばれました。奈良井宿は大きく、上町、中町、下町に分かれ、中心である中町には本陣、脇本陣、問屋などの主要な施設が設置され、宿場の両端にはぞれぞれ守護神(上町:鎮神社・下町:八幡宮)となる神社が勧請され山沿いに有力寺院(奈良井五ヶ寺:浄龍寺・長泉寺・大宝寺・法然寺・専念寺)が境内を構えました。上町と中町の境には「鍵の手」と呼ばれる枡形が設けられ、中町と下町の境には横水(沢)が境界線して明確に区分けされています。
奈良井宿には木曽路の他の宿場町と比べると決して旅籠は多くなかったものの、木曽産の木材を利用した工芸品を制作する数多く職人達が住まうようになり家屋の数では木曽路11宿の中では最大規模の宿場町として発展し、江戸時代後期の天保14年(1843)に記録された「中山道宿村大概帳」によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒、問屋2軒、家屋409軒、人口2155人だった事が判ります。明治時代以降は衰微しましたが、現在でも手塚家住宅(上問屋史料館:国指定重要文化財)や中村邸(塩尻市指定文化財)、原家住宅(徳利屋:塩尻市指定文化財)などの良好な町家建築が軒を連ねる町並みが残され、「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している」との選定基準を満たしている事から南北約1km、東西約200m、面積17.6ヘクタールが昭和53年(1878)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され平成元年(1989)には建設大臣の「手づくり町並賞」を受賞しています。
実際歩いてみると奈良井宿は隣接する中山道の宿場町である贄川宿や藪原宿と比べかなり長く歩き応えはあり当時の繁栄ぶりを窺う事ができます。又、大きく町並みを修景していないせいか上問屋史料館や杉の森酒造などの大きな町屋だけでなく間口が狭い比較的小規模な町屋、水場や庚申塔、地蔵などの民俗的な側面や社寺仏閣など信仰の場なども残されていました。奈良井宿は完全に観光化されていない為、実際に生活している方々も多く、所々で生活感も感じられる大変好感がもてる町並みだと思います。
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