【 概 要 】−小笠原貞慶は天文15年(1546)、小笠原長時と仁科盛能の娘との子供として生まれました。長時天文17年(1548)、長時は塩尻峠の戦いで武田軍に敗れた事で戦線を維持出来なくなり上杉家を頼り越後国(現在の新潟県)に逃れています。貞慶は天正7年(1579)に小笠原家の家督を継ぐと室町幕府15代将軍足利義昭に仕え、永禄12年(1569)に発生した本圀寺の変では三好三人衆に従軍したものの、織田信長に敗れています。
元亀4年(1573)に足利義昭が西国に逃れると、貞慶は信長に仕えるようになり特に武田家や上杉家、北条家などに対しての外交官的な役割を担っていました。天正10年(1582)、織田、徳川連合軍による武田領侵攻では深志城(松本城)を落城させるなど功があったものの旧領復帰は果たせず、同年に発生した本能寺の変を機に徳川家康の家臣となり、徳川家の支援を受け再び深志城(松本城)に侵攻し旧領復帰を果たしています。
徳川家への忠誠を示す為、重臣である石川数正に嫡男である小笠原秀政を人質として差し出していたところ、天正13年(1585)に数正は人質を引き連れ豊臣秀吉に出奔した為心ならずも豊臣家の家臣となっています。天正18年(1590)に発生した小田原の役では前田利家に従軍し、その功により讃岐半国の領主に抜擢されたものの尾藤知宣を匿った事が不興を買い改易されています。
その後、徳川家の家臣として下総古河3万石を与えられた小笠原秀政を頼り古河に遷っています。文禄4年(1595)死去、享年50歳。浅間温泉の一角には松本藩の藩主水野忠直が設けた墓碑(小笠原家墓所)が建立されています。
松本城を本城とし整備を行った際、岡宮神社(松本市)の神官を招き地鎮祭を慣行、天正10年(1582)には仁科神明宮(大町市)に社領15石を寄進し禁制を発布、穂高神社(安曇野市)に社領15石、神宮寺領3石を寄進、さらに禁制を発布、小野神社(塩尻市)に社領を寄進、天正10年(1582)には若沢寺に禁制を発布、同年には西福寺に禅興寺分及び慈雲寺分の寺領を寄進、同年は長興寺と祝梅庵に寺領を安堵、同年には広沢寺と若沢寺に寺領を安堵、同年には宝積寺に寺領を安堵、同年には金松寺に安曇郡西牧の地を寄進、天正11年(1583)には満願寺に寺領を安堵、同年には観勝院に寺領を安堵、同年には成就院に寺領を安堵し禁制を発布、同年には大沢寺に安曇郡松河等の地を寄進し禁制を発布、天正12年(1584)には伊勢皇大神宮に筑摩郡次柳の地を寄進、天正13年(1585)に満願寺の本堂を修復、同年には満願寺観音堂を造営し観音灯明料を寄進、天正15年(1587)には清長寺に寺領を安堵、天正16年(1588)には広沢寺の隠居寺として竹渓庵を創建しています。
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