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旧雷電生家(東御市)概要: 旧雷電生家は長野県東御市滋野乙に位置しています。
雷電は明和4年(1767)に信濃国小県郡大石村の関半右衛門家に生まれ幼名として太郎吉と呼ばれていました。
天明元年(1781)、太郎吉15歳の時、子供の頃から体が大きかった事から長瀬村上原源五右衛門の相撲道場に入門し、相撲の基礎を学びました。
天明4年(1784)、太郎吉18歳の時、相撲の才能が認められ、江戸に上ると浦風部屋に入門し、その後、伊勢ノ海部屋に入り谷風の内弟子となっています。
天明8年(1788)、太郎吉22歳の時、実力が認められ松江藩7代藩主松平治郷のお抱え力士となり、松江藩ゆかりの四股名「雷電」を賜り、8石4人扶持を与えられています。
寛政2年(1790)、雷電24歳の時、11月の江戸本相撲で付け出し関脇、雷電為右衛門として初土俵に上り、戦績8勝2預かりで初優勝を飾っています。
雷電は身長7尺(約2.1m)から6尺5寸(約1.97m)、体重は49貫600匁(約168.8s)、類稀な体格によって並み居る強敵を倒し続けました。
寛政7年(1795)、雷電29歳の時、3月の春場所で西大関に昇進すると、快進撃が続き、寛政11年(1799)には11場所連続優勝、44連勝を達成しています。
文化8年(1811)、雷電45歳の時に引退するまで、23年間、出場35場所、優勝28回、準優勝1回、総取組数285、勝星254、負星10、勝負預り14、無勝負5回など、勝率9割6分2厘で古今無双の力士として名を馳せました。
さらに雷雷には、「張り手」「かんぬき」「突っ張り」の三つの禁じ手があったといわれ、とてつもなく強かった事が窺えます。
引退後の雷電は松江藩の相撲衆頭取に抜擢され、49歳まで全国各地で巡業を行い、その時の様子を「諸国相撲控帳」で記しています。
文化8年(1811)から文政2年(1819)までは松江藩の相撲頭取となり、藩のお抱え力士の江戸相撲や地方巡業の采配を任され、その時の様子を「萬御用覚帳」で記しています。
雷電は53歳でお役御免となり松江藩を離れると、奥方の実家のある佐倉で余生を送ったと云われ、文政8年(1825)に享年59歳で没し江戸赤坂の報土寺に葬られています。
旧雷電生家は寛政10年(1798)に雷電によって建てられた建物で、十分な金銭を持ち合わせていたものの、あえて子供の頃にお世話になった長瀬村の庄屋である上原源五右衛門の邸宅より小さく建てたと伝えられています。
建築費は50両程で、竣工祝いなどで持て成した酒代は28両に及んだと記されています。
昭和59年(1984)に旧雷電生家が老朽化した為、それを憂いた関係者が協力し浄財と東御市の助成金を得て、現在の形に復元、一般公開され雷電所縁の資料なども展示されています。
旧雷電生家の建物は木造2階建て、切妻、桟瓦葺き、平入、大屋根上部には通風や煙出しの為の越屋根が設けられています。
外壁は2階が大壁造り白漆喰仕上げ、1階の外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押えとなっています。
内部の1階には両親の居宅の他、相撲の訓練が出来るように土俵が設え、その上部を吹き抜けとし、2階の回廊に手摺を設け土俵が見下ろせるようになっていました。
敷地内には雷電が田畑の行き帰りに鍬の先につるして足腰を鍛えたという"雷電の鍬石"があり興味深いです。
旧雷電生家は力士住宅として貴重な遺構である事から昭和42年(1967)に東御市指定史跡に指定されています。
又、東御市内には「雷電のお墓」や「力士雷電の碑」、雷電が奉納した「薬師堂の石像仁王像」や「海野宿白鳥神社四本柱土俵」などが点在しています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-東御市教育委員会
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