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東町の歌舞伎舞台(東御市)概要: 東町の歌舞伎舞台は長野県東御市祢津角屋に鎮座する祢津日吉神社の境内に位置しています。
当地で歌舞伎が何時頃から演じられたのが始まりかは判りませんが、現存する「踊大小入」と記された木箱に寛延4年(1751)の銘が刻まれている事から、少なくとも江戸時代中期以前と推定されています。
当初は、当地を起点として北東約500mの地点がその頃にあった「えんぎ場」だったと伝えられ、その後に現在地で鎮守として篤く信仰された祢津日吉神社の境内に遷されています。
寛永元年(1624)に美濃大垣藩5万石の藩主だった松平忠良が死去すると、跡を継いだ松平憲良は幼少だった事から小諸藩5万石で移封となっています。
その際、庶長子だった松平忠節は信濃国小県郡3千石石・佐久郡2千石を分知され、寄合旗本に列格しています。
当初、東上田に陣屋が置かれたものの、その後、現在地の西宮の立町に移されています。
禰津松平家は大身でしたが定府旗本だった為、江戸詰めで、陣屋には当主の居館がありませんでしたが、家臣や商人、領民などが江戸と領内を行き来した事から、江戸の文化が当地に持ち込まれ地歌舞伎が盛んになったと推定されています。
幕府は風紀の乱れを懸念した為、歌舞伎の取締を強化していたものの、当地は旗本領だった事もあり、取締が緩やかっただったとされ江戸時代を通して地歌舞伎が演じられ続けました。
東町の歌舞伎舞台がある祢津日吉神社には安政3年(1856)から明治年間の台本や歌舞伎上演に関わる記録文書などの資料が保存されています。
太平洋戦争が勃発すると、歌舞伎の踊り手だった多くの男性が徴兵され、歌舞伎舞台も老朽化、派手な行事の自粛、金銭的な困窮などにより地歌舞伎は行われなくなっています。
数十年後、地歌舞伎再興の気運が高まり「東町歌舞伎保存会」が発足すると、昭和63年(1988)に歌舞伎舞台の修復が行われ、4月にこけら落としとして「伽羅先代萩」が上演されています。
現在も毎年4月29日には定期公演を開催しており、貴重な事から平成8年(1996)に東御市指定無形民俗文化財に指定されています。
東町歌舞伎舞台は江戸時代後期の文化14年(1817)に建てられたもので、木造平屋建て、切妻、桟瓦葺、平入り、桁行き8間(約14.5m)、梁間5間半(約10m)。
舞台の両袖には下坐が設けられ、中央にはコマ式回し舞台と2つの舞台を上下させ、役者を奈落から登場させる施設である「セリ上げ」、舞台の背景を左右に分け、裏の背景に早変わりさせる施設である「セリ分ケ」。
舞台の背景を前後させ立体的な動きを見せる施設である「セリ出シ」、舞台背景をどんでん返しさせる施設である「田楽返し」などを備えています。
床下は奈落と呼ばれ役者達の化粧部屋や据え風呂などが特設されていたそうで、客席は前面の芝生で傾斜をつけ扇型にすることで観客から見やすい構造になっています。
又、東町の歌舞伎舞台は現存する歌舞伎回り舞台としては最古級のものと云われ、建築史的にも貴重な存在です。
東町の歌舞伎舞台は当時の庶民文化を象徴するものとして貴重な事から平成2年(1990)に長野県指定有形民俗文化財に指定されています。
祢津日吉神社の創建は不詳ですが当地の鎮守で、拝殿は木造平屋建て、切妻、銅板葺き、平入、桁行3間、梁間2間半、正面1間切妻向拝付き、本殿は一間社流造、銅板葺き、外壁は構造部は朱塗り、壁部は黒塗り、彫刻部極彩色。本尊:大山咋神。
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