海野宿: 本陣

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概要・歴史・観光・見所
本陣(海野宿)概要: 北国街道が開削された寛永2年(1625)当時は海野宿と田中宿は合宿でしたが本陣田中宿が本宿で、海野宿は枝宿的な立場だった為、本陣は田中宿のみに設けられていました。寛保2年(1742)の大洪水で田中宿が大被害を受けると海野宿に本陣が設けられる事となり、海野宿の問屋を担い有力者だった藤田家が本陣家に指名されました。藤田家は藤原鎌足の後裔から派生した一族のさらに後裔とされ、戦国時代は武田信玄や上杉謙信、北条氏邦に仕え沼田城(群馬県沼田市)の城代を担うなど武将としても活躍していました。特に藤田信吉は上杉景勝の重臣として新発田重家の乱や佐渡平定、小田原の役などに従軍して大功を挙げ津川城(新潟県阿賀野町)の城代1万5千石の大身となっています。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは非戦派だった為、排斥され上杉家を出奔、戦後は徳川家から許され1万5千石で西方藩(現在の栃木県栃木市西方町本城)を立藩し、その後も、佐竹義宣の久保田城(秋田県秋田市)移封に伴う水戸城(茨城県水戸市)の接収などの大役を果たしました。一般的には慶長20年(1615)の大坂夏の陣後に問題を起こし改易され、元和2年(1616)7月14日、中山道の宿場町である奈良井宿(長野県塩尻市奈良井)で死没したとされ、跡継ぎ等の記録が残されていません(奈良井宿に境内を構える長泉寺には藤田能登守信吉の墓が建立されています。享年58歳)。

一方、藤田家に残されている文書によると、信吉は慶長15年(1610)4月15日に奈良井宿で死没(享年73歳)、子供である五兵衛吉道は佐久郡前山に生き延び、その子供である市太輔栄吉が小諸藩の家臣の娘を娶り海野宿に移り住んだとしています。その他にも所説あり真偽を確かめる事は出来ませんが、藤田信吉は海野郷の領主だった海野信親の娘を娶っている事から、海野家の一族の一部が海野宿で支配層として土着し、遠縁で著名だった藤田信吉に因み藤田姓を名乗り後裔を自称したのかも知れません。海野宿の本陣には北国街道を参勤交代で利用していた加賀前田藩主前田家や越後高田藩主榊原家などが利用し、屋敷には長屋門の他に大名などが利用する表門や御居間(上段の間)、湯殿、家来衆や小姓などが利用する部屋などが配置されていました。現在は長屋門などの遺構が残るだけですが当時の雰囲気を感じることが出来ます。

本陣:写真

本陣
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