白鳥神社(海野宿)概要: 白鳥神社は長野県東御市本海野に鎮座している神社です。白鳥神社の創建は不詳ですが伝承によると日本武尊が東夷東征の際、当地に滞在した故事から尊の御霊を勧請したのが始まりと伝えられています。一説には日本武尊は東国の平定という景行天皇の勅命を完遂し、都に凱旋帰国する際、鳥居峠を越えて信濃の国に入ると旅の疲れから、当地に暫く滞在していると、目の前に広がる野原の風景が相模の海難に似ていた事から「海の野のようだ」と語った事が地名「海野」の由来になったとしています(海野の地名の由来には諸説あります)。
その後、日本武尊は信濃の国を離れ、熱田の地に戻った後に伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境に聳える山)の荒ぶる神の討伐に出陣しましたが、逆に毒気に当てられ敗北し能褒野(三重県)で息絶えると、日本武尊の墓標から白鳥が出現し、白鳥は日本武尊の縁の地を一つ一つ回りながら大和の都に戻っていったそうです。その話を聞いた景行天皇は、白鳥に立ち寄った場所に日本武尊を祭る祠を建立し、海野宿に鎮座する白鳥神社もその一つとも云われいます。一方、日本武尊が祀られている神社は白鳥大明神や白鳥神社などと号する例が多く当社もそれに習ったものと思われます。
記録的には鎌倉時代に編纂された「源平盛衰記」に治承5年(1181)、木曽義仲が白鳥河原に海野氏や四天王と呼ばれた樋口、今井、根井、楯氏など信州、西上州の武将3000騎を集め平家打倒の挙兵を挙げた故事が記載されている事から当時、既に白鳥神社は存在し境内に面した千曲川の河原が白鳥河原と呼ばれていたと考えられています(源平盛衰記は軍記物の要素が強く資料的価値は低く見られています)。又、天平年間(729〜741年)に信濃国小県郡海野郷の民が麻織物を朝廷に対して貢物をしている事から奈良時代には既に海野郷が存在しその産土神として勧請されたとも考えられます。
平安時代に入ると滋野氏の一族が小県郡望月郷海野白鳥庄に配され、地名に因み海野氏を名乗り、当地の鎮守である白鳥神社を篤く信仰するようになり、滋野氏の祖である「貞元親王(清和天皇の第4皇子)」、「善淵王(貞保親王の孫)」、「海野広道」が同時に祭られました。海野氏は、ここを本拠として長く支配者として君臨し白鳥神社はその氏神として庇護され社運が隆盛したものの、戦国時代に行われた海野平の戦いで村上、武田、諏訪氏連合軍に敗退した事で没落し、白鳥神社も衰微したと思われます。
海野氏が没落すると同族とされる真田家が復権を果たし、白鳥神社を氏神として信仰するようになり社領の寄進や社殿の造営が行われています。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで真田本家(真田昌幸・幸村)は没落したものの、引き続き真田信之が庇護し元和8年(1622)に真田信之が上田城(上田市)から松代城(長野市松代町)に移封になると松代城下の外れに分霊を勧請し白鳥神社しています。
海野宿に残された白鳥神社は新たな上田藩主仙石家に一時冷遇されましたが、元和5年(1619)、社領3貫250文の安堵が認められ海野宿の産土神として信仰が続けられ安政5年(1858)には海野神社に改称しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され、明治13年(1880)に郷社に列し、旧社号と思われる白鳥神社に復しています。
現在の白鳥神社本殿は寛政3年(1791)に再建されたもので一間社流造、銅板葺、間口6尺、江戸時代後期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から平成24年(2012)に東御市指定文化財に指定されています。拝殿は明治14年(1881)に再建されたもので、切妻、桟瓦葺、平入、正面向拝付。白鳥神社の境内社である新海神社本殿は宝暦年間(1751〜1763年)に造営されたもので、一間社流造、銅板葺き、間口5間、江戸時代中期の神社本殿建築の遺構として貴重な事から平成24年(2012)に東御市指定文化財に指定されています(社号から佐久市に鎮座する新海三社神社と関係があると思われます)。
拝殿前にある御神木(推定樹齢700年、樹高30m、幹周5.8m)を始め境内にはけやきや杉などの大木があり"白鳥神社の社叢"として昭和56年(1981)に東御市天然記念物に指定されています。昭和62年(1987)に海野宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された際には白鳥神社も本殿や拝殿、新海三社神社本殿が景観の構成要素となっています。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-東御市教育委員会
・ 現地案内板
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