上戸倉宿

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上戸倉宿:略データ
・場 所・長野県千曲市磯部
・概 要・戸倉宿は江戸時代初期に北国街道が開削すると宿場町に指定されましたが、千曲川の洪水により宿場の南側が壊滅的な被害を受けました。

これにより元和8年に南側の住民が移転し上戸倉村を開村、下戸倉村と別れた事に伴い、上戸倉宿と下戸倉宿が成立しています。

ただし、両宿とも余り大きく無く、隣接している事から月の始めから21日までは下戸倉宿、22日から月末までは上戸倉宿が伝馬役を担当する合宿でした。

上戸倉宿には本陣1軒、問屋2軒が置かれ、本陣と問屋は玉井家が歴任しましたが、江戸時代末期頃から小出家が本陣を担っています。

当地は丘陵地にある為、千曲川からの引水が出来なかった事から貝喰沢の沢水を引込、様々な所に半切桶を利用した貯水井戸を設けて飲料水とし、落水は街道中央に設置した堰(水路)に流すようにしていました。

上戸倉宿の外れにある「笄の渡し跡」は千曲川の対岸とを結ぶ重要な渡し場で、天文22年、葛尾城の城主村上義清は篤い絆によって結ばれていたはずの屋代氏や雨宮氏、塩崎氏の裏切りにより背後から攻められ落城、義清の奥方は千曲川の対岸に位置している葛尾城の支城荒砥城に落ち延びる為、舟を出してもらい無事に渡河する事が出来ました。

しかし、奥方は船賃を持っているはずもなく、その代わりと言って髪から笄を取り出し船頭に代金の代わりと微笑みながら渡して姿を消しました。

その後、奥方は義清討死の報を開き千曲川に身投げをしたとの噂が流れた為、村人達は奥方を偲んで「笄の渡し」と呼ぶようになったと伝えられています。

上戸倉宿は下戸倉宿とは異なり、街道が国道18号線と重ならなかった事から静かな宿場町の雰囲気が残され、特に江戸時代末期に本陣職を担った小出家は塗屋造りの大型の主屋と格式の高い表門が残されています。

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