柳町・町並み(上田市)概要: 当地は上田城の城下町であると同時に北国街道の宿場町でもあり柳町には多くの旅籠や町家建築が軒を連ねていました。
案内板によると「柳町は原町と紺屋町の両町をつなぐ街道筋に、旅籠屋や商家が軒を並べるようになってできた町。町名は町筋に柳の木の多かったことによるという。文化元年(1804)この町には呉服屋が25軒もあって賑わった。」とあります。
上田市の近代化に伴い古い町並みが失われる中、柳町は平成に入り保存活用の機運が高まり、町家建築の再利用などが行われ歴史的な町並みを保持しています。
【 森文 】−石森家は代々屋号「森田屋」を掲げて呉服屋を生業としてきた家柄で、明治初期の当主、石森文次郎の名前に因み「森文」とも呼ばれました。現在の建物は明治時代初期に建てられたもので、木造2階建て、切妻、桟瓦葺、平入、外壁は大壁造り漆喰仕上げ(2階屋根垂木まで漆喰塗り)、1階腰壁は下見板張り縦押縁押え、2階外壁両側には袖ウダツ、正面に格子戸、1階正面は下屋庇が張り出しています。失われつつあった柳町の町並みの保存活用の原点になった店で現在は喫茶店として再利用され、敷地背後に設けられた土蔵は「聡凡堂」として飲食店となっています。
【 北国街道 】−北国街道は日本海の要港だった直江津湊付近から、中山道の追分宿を結ぶ街道で、特に佐渡金山で産出された金を江戸まで運ぶ経路として幕府から重要視され五街道に次ぐ格式を持っていました。又、100万石の大藩だった加賀藩前田家をはじめ、富山藩、大聖寺藩、高田藩などの参勤交代の経路でもあり、北国街道の宿場町は大きく繁栄しました。
江戸時代中期以降になると、庶民が神社仏閣を詣でる事が広がり、全国から善光寺や戸隠神社、諏訪大社などを目指した為、善光寺街道とも呼ばれるようになっています。柳町は北国街道沿いに町割りされた町で、上田市の中心部の中では最も当時の雰囲気が残されています。
|