北国街道: 坂木宿

  長野県:歴史・観光・見所北国街道(善光寺街道)>坂木宿

概要・歴史・観光・見所
坂木宿(北国街道)概要: 坂木の地は南北朝時代以降、村上氏の居城である葛尾城の城下町として成立した町です。麓には村上氏の居館(現在の満泉寺の境内)が設けられ、崇敬社で当地の鎮守だった坂城神社が鎮座、菩提寺の満泉寺、大英寺など村上氏縁の社寺が現在でも点在しています。 戦国時代に村上義清の出現により東北信一帯まで版図を広げ最盛期を迎え、信濃侵攻を画策する武田信玄にも上田原合戦、戸石崩れの2度勝利を治めましたが、武田家に従った真田幸隆の調略により、家臣団が分断され、越後の上杉謙信を頼り坂木の地を去りました。その後も、葛尾城は戦略的な拠点の一つとして機能したようですが、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際発生した第2次上田合戦で徳川方で利用された以降は廃城になったと思われます。

江戸時代に入り北国街道が開削されると、宿場町の一つ坂木宿が開宿し、本陣(宮原家)、脇本陣(中沢家)、問屋、旅籠などが設置され経済的にも発展しました。特に旅籠には飯盛女を囲うことが許可され遊興の地としても栄え北国街道の中でも指折りの盛況の地となっています。元和4年(1618)には千曲川東側14ヶ村(約5千石)で構成された幕府天領の代官陣屋が設けられ、中世以来、当地域の行政の中心としての立場が維持されました。さらに、天和2年(1682)には板倉重種が5万石で入封し坂木藩が立藩、坂木陣屋が設けられ藩庁が置かれました。坂木宿は藩都として発展しましたが、元禄16年(1703)に板倉家は福島藩(福島県福島市)に移封となり坂木藩は廃藩、その後天領になったものの、宝暦4年(1754)に代官陣屋の機能は中野(長野県中野市)に移されました。江戸時代末期から明治時代にかけては養蚕業の拠点の一つとして発展し、遊郭が正式に認められていた事もあり飯盛女達はこの地に留まり坂木遊郭を形成、坂木甚句が歌われるなど大いに賑ったそうです。現在は遊郭の雰囲気はありませんが街道の両側には名主宅や本陣表門、坂田家住宅などの古い町屋建築が点在し当時の宿場町の名残を見ることが出来ます。又、江戸時代後期から松代藩の政策により養蚕業が奨励され為、桑畑も広がり街道沿いには養蚕農家特有の屋根形状をした民家も点在しています。

【 坂田家住宅 】-坂田家は北国街道の宿場町である坂木宿(長野県坂城町)で代々名主を務めていた家柄です。現在の建物は明治45年(1911)のの火災で焼失後に建てられた建物で、木造2階建、切妻、桟瓦葺(煙り出し:桟瓦葺・下屋庇:桟瓦葺)、平入、桁行8間、梁間4間、外壁は2階は大壁造り土壁鏝押え、防火を意識して軒下まで仕上げられています。2階正面向かって左側だけ袖壁、格子戸も左側に偏っています。1階正面は略全面黒漆喰塗りの格子戸で、向かって右側の玄関周辺のみの腰壁が海鼠壁(基礎部は下見板張り縦押縁押え)で仕上げられ、その上部が「たかさ」の鏝絵風の看板が掲げられています。

坂木宿:写真

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本陣
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旧格致学校
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