・小諸宿の原型は長享元年に大井光忠が鍋蓋城を築城した際に町割りされた城下町とされます。
戦国時代に当地が武田領になると交通の要衝だった事から重要視され、武田信玄は重臣の山本勘助に命じ、鍋蓋城の支城となる乙女城(後の小諸城)の拡張整備を行っています。
天正18年に当地に配された仙石秀久が小諸城を近代城郭へ改修、小諸藩が立藩後城下町は藩都として整備されています。
江戸時代に入り北国街道が開削されると城下町に引き込まれ街道沿いに町割りされた商家町が宿場町に指定され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠等が設けられ、市町の「上問屋」と本町の「下問屋」が半月交代で伝馬役を担っていました。
本陣と下問屋は加藤家が歴任し、現在も主屋と問屋部が残され、貴重な事から国指定重要文化財に指定されています。
脇本陣は粂屋重右衛門家が歴任し町内年寄役や且問屋等、宿場の上役を担い、明治維新後は「東信館粂屋旅館」として引き続き旅館業を生業としています。
旧小諸宿脇本陣主屋は江戸時代後期に建てられた建物で、貴重な事から国登録有形文化財に登録されています。
宿場の一角に鎮座している健速神社の例祭である「祇園祭」は毎年7月13日に近い日曜日に開催され、特に正六角形に神輿巡幸は盛大で貴重な事から、小諸市の無形民俗文化財に指定されています。
小諸宿は城下町でもあった為、小諸藩士の消費地としても発展し、江戸時代中期には東信濃随一の経済圏を形成し、特に醸造業は信州の最先端だったとも云われています。
明治の文豪島崎藤村所縁の地でもあり、明治32年から明治38年まで小諸義塾の国語と英語の教師として教壇に立ち、小諸馬場甫の士族の屋敷跡で新居を構え、結婚、3人の娘が生まれています。
その間、文芸雑誌「明星」創刊号で「旅情(小諸なる古城のほとり)」や「文界」で「一小吟(千曲川旅情のうた)」を発表、その他にも「千曲川のスケッチ」、「藁草履」、「爺」、「老婆」、「椰子の葉景」等を発表しています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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