篠ノ井追分宿(北国街道)概要: 篠ノ井追分宿は幕府から認められた宿場町ではなく丹波島宿と屋代宿との間宿でした。その為、正式な意味での本陣や脇本陣、旅籠といった施設は設けられませんでしたが北国街道と善光寺西街道の分岐点となった為、多くの旅人や善光寺詣での参拝客で大きく発展しました。
又、千曲川の渡船場を控えていた事や、千曲川舟運の最終湊として物資の集積場になっていた事など経済的にも発展し無許可で宿泊宿(基本的に旅籠など許可を取らないと有料で宿泊させることが出来ない。)を経営する者も現れ隣接する宿場町とトラブルになっています。
明治時代以降も経済的な中心地として発展し更級郡役所が置かれるなどしましたが次第に中心が移り現在に至っています。鎮守である軻良根古神社の創建は当地が千曲川が堰き止められ湖だった時代にまで遡り、伝承によると、当時、大ネズミが大発生した事から唐(中国)から大ネコを買い入れました。
大ネコはネズミ達を堤まで追い込みましたが、ネズミ達は堤を食いちぎった為、大洪水が発生し、大ネコ、ネズミ共に溺死しました。大ネコの死体が流れ着いたのが篠ノ井追分宿付近の川辺で、住民達はその御霊を慰めるため軻良根古神社を創建して祭ったと伝えられています。
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