・善光寺宿は文字通り名刹・古刹として知られる善光寺の門前町として発展した町です。
記録敵には鎌倉時代以降に門前町として形成され、善光寺の信仰の広がりに従い町も拡大したと思われます。
しかし、戦国時代になると越後の上杉家と甲斐の武田家との間で攻防戦が幾度となく繰り広げられた事から門前町も善光寺と共に大きな被害を受け荒廃しています。
善光寺も明けだ進言を頼り甲斐甲府に遷り(甲斐善光寺)、その後も本尊は為政者が持ち回りのように各地に遷した事から門前町も衰退しました。
慶長3年に豊臣秀吉の命により本尊は京都の方広寺から信州善光寺に遷され、跡を継いだ豊臣秀吉も再興に尽力し次第に門前町も整備されたと思われます。
江戸時代に入ると初代将軍徳川家康の庇護を得て、善光寺には1千石という破格の寺領が与えられ、さらなる復興が進んでいます。
慶長16年に北国街道が開削されると宿場町に指定され、本陣や脇本陣、問屋、旅籠等が整備されています。
本陣は当初は松井家が務めましたが、その後は羽田家、藤井家、中沢家、坂口家と続き、安永5年以降は藤井平五郎家が明治維新まで歴任しています。
藤井家は慶安元年に創業し、特に加賀藩前田家が参勤交代で善光寺宿を利用した際には常宿としていました。
明治維新以後本陣職は失われましたが、引き続き上級旅館として継続した事から伊東博文や福澤諭吉等の著名人や政治家、皇室が利用しています。
問屋は松井家、小野家、羽田家、坂口家、中沢家が続き、延享3年から小野善兵衛家、嘉永元年から中沢与三右衛門家が担っています。脇本陣は臼井清五郎家が歴任し、明治維新以降は「山屋旅館」となっています。
旅籠は30軒程あり、特に江戸時代後期になると一般庶民にも行楽志向が高まり、善光寺詣でをする人が爆発的に増加、江戸時代中期の享保6年には人口が5千人程でしたが江戸時代末期には寺領人口8千人、町続き他領分を合わせると約1万人に及んだとされます。
善光寺宿は周辺地域の物資の集積地でもあり、木綿布、麻、紙、種油等を扱い大門町、西町、東町には市立てが許され、月12回の定期市が開催されています。
門前町として多くの宿坊が現存するのも特徴の一つで善光寺仁王門周辺には特に宿坊が集められています。
北国街道:宿場町・再生リスト
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